小さい頃、寝る前は少し興奮した。
 暖かい布団にくるまりながら、その日にあったことをひとつひとつ思い出した。
 幼稚園で友達と折り紙で遊んだ。
 昼食においしいシチューが出た、
 帰り道、綺麗なお花が咲いていたのを見つけた。
 ひとつひとつが思い出に変わっていくたびに、明日はどんなことがあるんだろうかと期待で胸がいっぱいになった。
 眠りにつくたびに、世界はなんて幸せに満ちているんだろうと、微笑みながら夢を見た。


 小さい頃、眠ることが怖かった。
 何をやってもうまくいかなかった。
 それが自分のせいなら納得もしただろうが、原因はいつも自分と関係ない事だった。
 頑張って練習して、一等賞を取るんだと臨んだ運動会は雨が降って中止になった。
 お使いにスーパーに行ったら、特売の卵は目の前で最後の一個が売れた。
 お小遣いを貯めて買った自転車は、駐輪場に飛んできたサッカーボールでフレームがひん曲がり、3日で乗れなくなった。
 明日なんか来なければいいと本気で思い、せめて冷たい夜気を布団で覆ってごまかして、悪夢の中で涙を流した。


 昨日とは違う今日。
 今日とは違う明日。
 希望を抱き、絶望に涙して。


 それでも一歩ずつ、歩んだ日々が、自分だった。

 

学園都市七不思議 その1 「意地と勝負と恋心・中」

        かいたひと:ことり

 

 ずっと、私は勝っていた。
 そりゃいつも必ず一番だったというわけではないけれど、それでも上位には入っていた。
 勝っていたか負けていたかと問われれば、胸を張って勝っていたと答えられる。
 そんな人生だった。
 もちろんその陰には必死の努力もしてきた。
 その甲斐あって負けと言うほどの負けも知らず、順風満帆に日々を過ごしていた。
 誇っていいはずの過去だった。

 

 今日、またアイツに負けた。
 試行錯誤して編み出した技も、すべてがアイツの前では無力だった。
 電撃で周囲の酸素をオゾンに変え、窒息させる作戦も破れた。
 地雷式の電気だまりに誘い出す作戦も失敗した。
 基礎の電気量をいくら上げても効かなかった。
 ――別にアイツが憎くて勝負を挑んでいる訳じゃない。
 むしろ黒星知らずのアイツには、ある種の尊敬もしているかもしれない。
 きっとアイツには、私が両手を振り回して駄々をこねている我が儘な子供に見えていると思う。
 でも、それでも。
 このまま負けっ放しなんかじゃいられない。
 だって、そうでなければ、今までの私が全部無駄になってしまうじゃないか。
 私が、私であるために、必死でもがいてるのを、誰が馬鹿にできるというのか。
 アイツに負けたのは、すごい悔しかった。それこそ、涙が出るぐらいに。
 だから今も、こうして寝る間も惜しみ、必死に頑張ってる。
 ……だけど。
 今日、黒子にひどいことを言ってしまった。
 黒子はただ純粋に、私のことを心配してくれていただけなのに。
 頭に血が上っていた私は、もうどんなことを言ってしまったのかもよく覚えていない。
 けれどそのときの黒子の顔は、いつまでも忘れられない。
 なんで、いつから私は、こうなってしまったのだろう。
 私が変わっていく。
 私を変えられていく。
 怖い。
 怖い。
 ……怖い。
 私は私でいたいのに、少しずつ違うものに変わっていく。
 昨日より今日、今日より明日。
 ゆっくりだけど確実に。
 昨日まであったものを失い、明日には新しいものを得ている。
 それは能力的にであり、精神的にであり――肉体的にもであった。
 アイツは私を負かすたび、私から一つずつ何かを奪っていった。
 初めて男の人に下着を見られた。
 初めて胸を触られた。
 初めて抱きしめられた。
 初めて――キスされた。

 いつもいつも、真剣な顔で何かを要求してくるくせに、私が了承すると、アイツはひどく驚く。
 私だって女の子だ。
 OKするのだってすごい覚悟をして言ったのに、失礼じゃないか。
 だから私は、勿論嫌だったけど……仕方ないから。
 アイツの意外に筋肉質な、ちょっと逞しい首に手を回して、距離を無くしていったのだ。
 しょうがないじゃないか。
 私は負けたんだから。
 悔しいし、認めたくないけど――私は負けたんだから。
 だから……仕方ないから。
 あいつの要求に、私は頷くしかできないのだ。
 そうして私は、ひとつずつ失っていく。
 失って少し欠けた場所には、別のものが入り込んでくる。
 胸に触れるあいつの手が大きくて、暖かかった。
 意外に広いアイツの胸に抱きしめられると、ちょっと安心した。
 キスがあんなに気持ちのいい事だったなんて、初めて知った。
 私が変わっていく。
 私を変えられていく。
 怖い。
 怖い。
 ……怖い。
 だけどそれは仕方のないことで、アイツが悪い訳じゃない。
 道すがら並んで歩いた帰り道は居心地よかった。
 一緒に食べたハンバーガーはいつもよりちょっとだけおいしかった。
 屈託無く笑うアイツの顔が、夢の中に出てきた。
 ……悪いやつじゃ、ない。
 だから……だから。
 黒子にアイツを馬鹿にされて、どうしようもなく腹が立った。
 もう関わらない方がいい、なんていわれて、ひどく悲しくなった。
 なんでそんな気持ちになるのか、自分でも分からなかった。
 ――そうして気づいたら、声を張り上げていた。
 だって、黒子は知らないのに。
 帰り道につないだ手のひらが、力強かったこと。
 一緒に歩く時に、歩幅を私に合わせてくれること。
 時たま見せる笑顔が、結構可愛いこと。

 ――こうして背負われている背中が広くて温かいことも。

「オマエなぁ、自分がブッ倒れるような能力の使い方してどうするんだよ」
 ぶっきらぼうに、ツンツンした髪の毛の反対側から、そんな愚痴が聞こえてくる。
 確かに今回は失敗だった。
 能力で全身の運動神経系に電気信号を送り、限界を超えたパワーとスピードを生み出す作戦だったのだが……先に筋肉の方が音を上げ、わずか1分足らずで全身疲労により立てなくなってしまった。
 ……この使い方には微妙な出力の調整が必要かもしれない。
「しかもなんだって俺がおぶって歩かなきゃならないんだよ……」
「うっさいわね。勝者は敗者をいたわりなさいよ」
 へいへい、とため息混じの声がする。
 ちなみに今は、普段AIM拡散力場として放出している電磁波を集中、出力をコントロールして、筋肉の疲労回復に充てている。
 ……なんかへんな使い方ばっかり覚えちゃったなぁ……
「そんでどーすんだ。このまま寮まで送ってきゃいいのか?」
「お馬鹿。普通に送ってもらうだけでもやばいって言うのに、そんな事できるわけないでしょ。寮長には黒子にごまかしてもらって、今日はどっかその辺のホテルで休むわよ」
 白井も大概苦労してるよな、とぶつくさ文句が聞こえる。
 だいぶ痛みは引いてきたが、今やっていることは磁力を当てて血行を良くし、こわばった筋肉をほぐして柔らかくしているだけであり、完全に回復させるにはやはりきちんと休むことが必要である。
「ふーん。じゃ送ったら、俺帰っていい?」
「勝者は敗者をいたわりなさいよ」

 へいへい、とため息混じりの声がする。
 制裁に、首に回した腕に力を込めてやった。

 ぐぇ、という情けない悲鳴を聞いて、ちょっと満足した。

 

「はー、生き返ったぁ。極楽ごっくらくー」
 バスルームへと続くドアを開けると、涼しげな風が入る。
 火照った肌の熱を奪われて、心地よく感じていた。
「お前なぁ……何をオヤジ臭い事言ってぶふぉ!?」
 ホテルルームに備え付けてあるダブルベッドに寝転がって、マンガを読んでいたアイツがこちらを見るなり吹き出した。
「あによいきなり。失礼な」
「おま、バスローブとかあっただろ!? 何でバスタオル一枚なんだよ!」
「いーじゃない別に。私、あれ嫌いなのよ」
 そういって、水を吸って幾分か重くなった髪を手櫛で整える。
 備え付けの冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを取り出した。
 本当はコーヒー牛乳と行きたかったが、無いものは仕方ない。
 腰に手を当て、一気に冷えた液体を喉に流し込んだ。
 ぷはーっと息をつくと、なにやら胡乱な視線を感じる。
 何が言いたいのか、ジト目で半ば睨み付けるようにこちらを見ていた。
 それはスルーするとして、腰に手を当てたまま問いかける。
「そんで? 今日はどうするの」
「へ?」
 何とも間抜けな声がした。
「へ、じゃないわよ。今日の分は何をすればいいの?」
 それはもう恒例のこと。
 私が負けるたびに、こいつに何かを捧げていく。
 悔しいけれど、悲しいけれど、仕方ない。
 だって私は、負けたんだから。
 死刑台に向かう囚人のような気持ちにもなって、返答を待つ。
 けれど目の前の執行人は、俯いて、何かを耐えるように、細く声を絞り出した。
「……もう、やめにしないか?」
「……へ?」
 今度は私の口から、間抜けな音が出た。
 こいつは何を言ってるのだろう。
 本当に、本当に私の理解の及ばない所で、話は続いていく。
「お前、今日のでわかったろ。このまま続けてけば、いつか体ぶっ壊すぞ?」
 話し声は淡々としていて、感情のこもらない、抑揚の欠けた、どこか現実離れした雰囲気だった。
 私はただ、それをぼうっと聞くばかりで。
「もういいじゃねーか。こんなそこら辺に転がってる石ころ負かしたって、何の自慢にもならないだろ?」
 どこかで聞いたような言葉が私の耳に響く。
 言葉をひとつひとつ聞く度に、胸の奥がちくちくと痛んだ。
「もうほっとけよ。お前がそんな無理すること無いんだからさ、もっと自分を大切にしろよ」
 それはついこの間、黒子に言われたこと。
 ……なんで。
 なんでみんな、私を否定するの。
 私はただ、頑張って、努力して……目標を達成しようとしていただけなのに。
「俺の事なんか忘れてさ、お前は自分の――」
 そこで言葉が止まった。
 なぜかはわからない。だけど、こいつは私の顔を見て、ひどくびっくりしたような表情をしていた。
 ――胸が痛い。いつのまにか握りしめていた手のひらがじくじくと痛む。
 けれどそんなものより、この胸の痛みは押さえようもなくて。
 なんでみんな、そんな事言うの。
 私はただ、私はただ……アンタと一緒に……
 ぽとん、と静かな部屋に音が一つした。
 小さな物音に私はひどく驚いて。
 探すまでもなく、音の正体もしれる。
 ……なんで?
 ――なんで私は――
「お前……泣いてる……のか?」
 あわててぐしぐしと目をこする。
 けれどぬぐってもぬぐっても、その粒は後から後から溢れてきて。
「う、うるさい! 誰が泣いてんのよ! 泣いてるって言うやつが泣いてるんだからね!」
「いや意味不明だし。とりあえず落ち着けお前」
 幾分か優しくなった声を聞いても、胸の痛みは治まるどころか増すばかりで。
 足の力も抜けて、立っていられなくなった私はぺたんと座り込む。
 痛い。
 いたい。
 イタイ。
 黒子に言われた時よりも奥深く。
 全身に絡みつく茨のように、絶え間ない痛みが襲ってくる。
 なんでアンタは、そんなこというの。
 どうして私は、そんなこと言われて泣いてるの。
 どうしてアンタは、私を見てくれないの――
「ぐ……え、ぐっ――ひ、う……」
 この声は、誰のものなのか。
 まるで小さな子が、迷子になった時のような、不安で、恐ろしくて。
 ひとりぼっちになったときのような、悲しい声。寂しい声。
 信じられない。私が――こんな声を出すなんて。
 生まれた不安はどんどん大きくなって、私なんかでは止めようもない。
 耳に届く泣き声は、どこまでも深く沈み、底のない沼のように、私を引きずり込んでいく。
 暗い。怖い。寂しい。
 ――だれか。
 たすけて……たすけてよ――

 ぽん、と。

 大きな、暖かい……手のひらが私の頭の上に置かれる。
 わし、わし、と数度前後に動かされて。
 赤く腫れた目を開いて、見上げると。
 そこには、照れたような、困ったような。
 そんな複雑な表情のアイツがいた。
 わし、わしと不器用に手は動く。
 まるっきり子供をあやしつけるような、そんな仕草で。
「あー……なんだ、その……悪かったよ」
 申し訳なさそうな、そんな声が聞こえた。
 私はただ、ぱちくりと目を瞬いて。
 ……わから、ない。
 どうしてだろう。
「お前がどうしてもってんなら……乗り気じゃないけど付き合ってやるよ」
 なぜ、私はこんなに。
 一体、どういう理由で。
「ただ、もう無茶だけはするんじゃねーぞ。お前がぶっ倒れたんじゃ、寝覚めがわりーからな」
 わからない。わからない。わからない。
 なぜ、どうして、どんな理由で、私は。

 ――こんなに、安心しているのだろう。

 気がつけば、体の震えが止まっていた。
 うるさかった鼓動が落ち着いていた。
 溢れていた涙が、止まっていた――
 足にも力が入った。
 ……もう、どうでもよかった。
 だから、わたしは。
「白井ほどじゃねーだろうけど、俺だって一応お前を心ぱ――んむっ!?」
 ひととびで飛びついて、ベッドに押し倒し――唇を奪っていた。
 別に甘くもなく、美味しくもなく――ただひたすらに熱い。
 どうしようもない衝動を、その熱に感じて、何かに突き動かされるまま、貪り続ける。
 絡ませ、吸って、重なり、ついばむ。
 ただ、求めるままに。
 どれだけそうしていたことか。
 名残を惜しみつつも、ゆっくりと離れると、きらきらと光る糸が現れ、時間をかけて、細く細く、消えていく。
 ただ、欲しかった。
 それだけで、我が儘な子供のように。
「み、みさ――っぷ」
 呟きかけた唇を、再度唇で塞ぐ。
 言葉なんて欲しくない。ただ、ただ熱が欲しい。
 急に動いた拍子に、素肌に一枚だけまとっていたバスタオルがはらりと落ちた。
 けれど私はそんなものにかまってる余裕なんて微塵も無くて。
 生まれたままの姿で、体を重ね、唇を重ね、ただひたすらに求めて。
 不思議そうな顔で固まってるこいつに、耳元で囁いてやる。
「……きょうの、ぶん、だから」
 そう。
 私は敗者だから。
 だから、私を打ち負かしたこいつに、こんなことをしたって……問題はない。
 何も、問題はない。
 はあ、と熱っぽくなった息を吐きだし、異性の体へ触れていく。
 見た目細いのに、力強い脈動をあちこちに感じて、少し、意外に思う。
 まるで子猫のように、頬をなめ、首筋に舌を這わし、耳たぶを食み、時折口づけを交わして。
 それが子供のじゃれ合いの延長にあるような、幼い行為でも。
 精一杯に『わたし』を使って、ただ尽くしていく。
 危なっかしく動く私の肩を、支えるように腕が回される。
 ただそれだけ。それだけのこと。
 ――なのに。
 私の瞳からは、ぽろ、とひとつ、しずくが零れていった。
「お、おい!?」
 ぽろぽろと、小雪のようにしずくが零れ落ちる。
 けれどそれは、先ほどの――地獄の底で凍てつくような冷たいものではなくて。
 もっと暖かい――それこそ、春の日差しのような。
 ぬぐうことも勿体なくて、私はそのまま目の前の広い胸に顔を埋めて。
 お気に入りのぬいぐるみにするように、頬を擦りつけた。

 暖かい。
 今まで私は、ずっと幸せだと思っていた。
 けれど今のこの気持ちは――これこそを幸せと言わず、何というのだろう。
 とても、とても幸せだと、心の底から思う。
 きっと、今までの幸せは、今この瞬間のためのものだったのだ。
 だからこそ今、こんなにも満たされている。
 
 つ、と指で目尻のしずくをぬぐわれる。
 きっと優しさのつもりだったのだろうけど、私は少し、名残惜しくて。
 濡れた指先をぱく、とくわえてやった。
 あわてて引こうとしたようだけど、もう遅い。
 逃げようとする所を吸い付いて、両手で押さえ込む。
 そのままちろちろと舌先でしばらく嘗め、軽く噛んでから、ようやくに解放した。
 私の顔がどんな風に見えているのか、目の前には憮然とした表情が見て取れて。
 そんな他愛もないことが、こんなにも嬉しい。
 すごく自然に微笑んで、もう一度抱きついた。
 ――と、腿のあたりに違和感が走る。
 何か固い、異物があるような……と、視線をそちらへやって納得した。
 真正面から瞳をのぞき込んで、糾弾してみる。
「し……しょうがねーだろ、お前が、そ、そんな……」
 耐えきれなくなったようで、不自然に顔をそらしながら、もごもごと口が動いた。
 真っ赤になってるのがなんだか可愛くて、もうちょっと意地悪したくなる。
 ほんの、ほんのちょっとだけ勇気がいったけど、恐る恐るに右手を伸ばしてみた。
 その……ズボンの布地を押し上げてるものは、布越しにまで熱さを感じる。
 触るのなんか当然初めてな私は、怖さもあったけど、それ以上に好奇心と……してあげたい、って気持ちが強かった。
 やわやわと触っていると、時々持ち主の体がびくんとはねる時がある。
 顔をのぞき込むと、何かを我慢しているような……苦しいような、そんな表情で。
 けれど私がさわっている箇所はますますに大きく、熱くなって、はちきれんばかりに主張をしている。
「……すけべ」
 ぽそ、と小さな声で呟く。
 なぜかその言葉にショックを受けたようで、肩がびくんと震えるのが見れた。
 それでも何も言い返せないようで、ベッドに身を投げたまま、しばらくは私のなすがまま。
 ――だから。
 もぞ、と体の位置を動かして、それの上まで上半身を持ってくる。
「お、おい御坂――う、わ!」
 何か言いかけたようだったけど、きゅっと少し強めに握ってやると、面白いように反応が返ってきた。
 肘を立てて上体を起こし、私のやることを見守ってるこいつの、鼻先をぴんと指で弾いてやる。
 黙って、見てなさい、と。
 そうして、抵抗らしい抵抗を全て封じ、ズボンのジッパーに手をかけた。
 ジジ、と開く音がする度、押さえるものがなくなったそれは、下に履いている下着を凶悪に押し上げ、体に対して垂直に、まるで私の顔を指さすように、存在を誇示しつつ立ち上がっていった。
 ごくり、とつばを飲み込む。
 私の意識はそこに集中して、息をするのも忘れるぐらいに凝視していた。
 小さい頃に見た、お父さんのを思い出しながら、ゆっくり、ゆっくりと。
 壊れ物を扱うように、邪魔な布地をめくっていった。
「う、わ……」
 ……とんでもなかった。記憶の中にあるものとは何もかもが違った。
 こんなに大きくなどなかった。こんなに固くなんてなかった。こんなに熱くなんてなかった。
 こんなに――見とれることなどなかった。
 どくん、どくん、と心臓が波打つ。
 唇が乾く気がして、短く舌を出し、ちろちろと嘗めて湿らせる。
 許可なんて取らない。こいつの意志も、私の意志すら無視して、指先は勝手に動き出す。
 赤くて、黒くて……とても熱くて。
 そそりたつ姿は、まるでマグマの柱を連想させた。
 触っていると溶けてしまいそうで、こんなに熱くて大丈夫なのかと、心配にすらなる。
 蠢く指先は、隅々まで形を確認するように、余すことなく蹂躙してゆく。
 ……どうしよう。もう目を閉じても、形を思い描くことができるようになってしまっている。
 視線を外すことができない。むしろ吸い寄せられるように、それだけしか見えなくて。
 この長い所から、傘のようになった部分。
 こすこすと、熱を増すように摩擦する。
 どうすればいいのかなんて知らなかった。
 なのに、指は勝手に動いていく。
 まるで、そうすることが当然であるように。
 取り憑かれたように、両手は動いていく。
「みっ……みさ、か、息が……! 顔、ちかっ……!」
 言われてようやく気づく。
 ……すごい臭い。
 夢中でいじくっていた私は、いつしかさらに乗り出して。
 本当に目と鼻の先に、それがある。
 呼吸すればするほどに、その臭いに満たされていく。
 ……臭い。臭い。臭い。
 ふんふんと、鼻を鳴らして臭いを嗅ぐ。
 ……臭い。臭い。臭い……いい、臭い。
 自分の嗅覚がおかしくなったのかと思った。
 何度嗅いでも、すごい臭くて……なのに。
 もっと、満たされたい。心の底から陶酔して、臭いを嗅ぎ続ける。
 誓って、偶然だった。
 唇を湿らそうと、舌先を少し出した瞬間。
 あまりに距離のなかったそれと、舌先がふれあって。
 アイツが呻くのが聞こえた。今までよりも、さらに強く。
 ――可愛い、声。
 純粋にそう思った。ぞくん、と背中が波打つ。
 今の……したら、もっと声、出してくれる……かな?
 そう思って、またちろ、と舌を出す。
 さほど距離もない。少し出しただけで、あっけなくまた触れあって。
 熱い。熱い。溶けた鉄のような熱を持つそれの表面を、指先で覚えた形をなぞるように、丹念に這わせていく。
 舌先で形を覚え、臭いを覚え――味を覚えて。
 魅入られたように、作業に没頭していく。
 ただ、したいから。
 意地とか勝負とか、そんなものはもうすっかり頭の中から消えていて――
 私がこうしたいから、ただこうしている。
 唾液でぬらついたそれを、酔ったように揺らめく視界で必死に追って。
 胸の奥が、熱い。
 熱に浮かされるように、私の体は勝手に動いて。
 あ、と思った時には、いっぱいに唇を開き、包み込んでいた。
「う、わ、わっ――!」
 声が聞こえる。
 聞き慣れたはずの、アイツの声。
 それがなぜこんなにも嬉しく思うのだろう。
 嬉しくて嬉しくて、一心に嘗め続ける。
 そうすることが自分の全てであるように。
 だってそのために、私はここにいるのだから――
 臭いもわからない。味など感じていない。
 ただ、ただ熱くて――それだけが欲しくて、ひたすらに尽くす。
 指も舌も唇も全て使って、それだけにただ夢中になって。
「み、さ――!」
 どくん、と脈動を感じた。
 唇を通して、私の中に何かが満ちていく。
 溢れそうなほどに注ぎ込まれる何かを、零してはならないと、必死に嚥下する。
 こくん。こくん。
 喉が動く度、体に電気が走る。
 知らない。こんなの知らない。
 体中を走る電撃は、頭の芯を直撃して――真っ白に染め上げる。
「ん、ぷぁ――あ、あっあっ!」
 耐えられなくなった私は、背をそらして、口を離してしまう。
 びゅる、びゅると、放物線を描いて、何か白いものが、私の顔と言わず体と言わず、降り注ぐ。
 その熱に、うっとりと微笑んで。

 もったい、ない、な――

 

 そんなことを考えて――そのまま、意識を手放した。

 

 

 カーテンの隙間から、暖かい日差しが降り注ぐ。
 眩しくて、仕方なしに、目を開けた。
「ん……」
 枕元のデジタル時計を見れば、早朝と、言うにはやや遅い時間で。
 こりゃ遅刻だな、と、そんなことを思ってため息をつく。
 揺らいでいた目の焦点をいまごろ合わせると、視界に入るのは見知らぬ天井で。
 ああ、確か、夕べは――
 朦朧とする意識をつなぎ合わせ、むくり、と体を起こす。
 シーツを気怠げにめくると、まっしろなバスローブがそこに見えた。
 ……ふと、一瞬の疑問。
 昨日は確か、と覚醒するにつれ、頭に血が上ってくる。
 がばっとシーツを掴み、何かから逃れるようにくるまった。

 え、えと……昨日は確か、アイツと勝負して、それでホテルで休んで……それで、それで――

 ぐわんぐわんと思考が揺れる。
 一通り思い出して、そこにいるはずの姿を部屋に探す。
「……あ、れ……?」
 だれも、いない。
 静まりかえった部屋には、ベッドで寝ている私一人。
 バスローブなんか着た覚えのない、私一人。
 ぱっぱっと、体を確認して。
 なんともない、それこそ、なんでもない体を抱きしめる。
 安心するよりも、少しむくれて。
「あんにゃろう……ばか。いくじなし。へたれ」
 思いつくままに悪口が飛び出る。
 どうしようもない馬鹿だな、と心底思う。
 汚れなんかついていない体を横たえて、もう一度シーツを掴み、頭までかぶる。
「……ばか」
 そう呟いた私の声は、少し寂しそうで……少し、嬉しそうだった。

 学校のことも忘れて、ただアイツのことを考えて――
 そのまま私は、もう一度目を閉じた。

 

 この幸せに、いつまでも包まれていたかったから。

 

           To be next day...







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