がたたん。ごととん。
 静かな夜の中、電車がひた走る。
 月は雲に隠れ、時折感じる風が肌に冷たい。
 たくさんの思いを抱えながら、電車が走る。
 家路を急ぐもの。荷物を抱え、旅へ出向くもの。使命を持って仕事へ就く者。
 いくつもの時を胸のうちに抱え、電車は走る。
 いつもどおり、変わる事無く。
 せめてこのひと時だけ、心安らげる場所であろうとしているかのように、
 がたたん、ごととん、と優しく子守唄を奏でながら。
 疲れきった体をつり革に持たれかけ、
 せめてひと時休まろうともがきあがくあのひとに、
 精一杯聞かせるように電車は走る。

 がたたん、ごととんと、八神はやてに捧げながら。

 

 はやてさんの科学実験講座


   一時限目「月明かりと枕木の相互干渉」

 

  ……かくん。
「……ふわ」
 なんとも我ながら間の抜けた声だと思った。
 この間あつらえたスーツの襟をあいた手で正す。ずれたハンドバッグの肩紐を直しつつ。
 立ちながら寝かけてしまうというのはどうにもカッコ悪くて仕方がない。
 つり革を改めてしっかりと握りなおし、軽く頭を振って、眠気をせめて和らげようと努力する。……涎まで垂らしたら泣くに泣けない。
 毎夜毎夜の残業。管理職を志すものとしては必要なこともあるかもしれない。
 でも……さすが、に、ちょっと……疲れてきた……かな……
 かくん。
「……ふわ」
 とん、と隣人に肩が触れる。
 倒れかけた自分に驚くが、帰途を急ぐ人たちでごった返す車内では珍しいことでもない。
「あかんなー……今夜ぐらいは、しっかり寝とかんと……そのうち体壊しそうや……」
 誰に言うでもなく、一人ごちる。
 毎日思いながら、結局実行されることは極めて少ないのだが。

 明日は……2課に報告書類提出して……外回りいってこな……せや、ザフィーラのご飯切れそうやったなー……

 朦朧とした頭で予定を思い出す。後半からはもう何を考えていたのかわからなくなってきたが。
 所在なさげに窓の外を流れる明かりを見る。
 ゆらゆらと右から左へ。いくつもいくつも。
 あのひとつひとつが、人々の帰る場所なのだろう。
 自分の帰る場所を思い浮かべながら、また瞳がとろんと閉じてくる。
 ちょうど列車がゆるいカーブを曲がり、がたん、と音を立てた。
「わ、わわわ……あ、ども、すんまへん」
 乗客がいっせいに動く。押しつ押されつ、肩といわず背中といわずぶつかって。
 はずみで少し位置がずれてしまったつり革を窮屈に握りなおす。
 鞄がゆらりと揺れて、前へずれるが、この際仕方ないこととしてしまおう。どうせ、降りる駅はすぐそこなのだから。
 またがたん、と車体が揺れ、乗客の波に流されそうになる。
「や、ちょっ……押さんといてえな……!」
 引き剥がされそうな手を必死でつり革に絡めて。

 ふと、違和感が走る。
 最初は鞄か何かかと思った。腰の辺りに当たる感触。違う。人の体。それも、手のひら。
 列車の細かな振動にあわせ、あくまでも添えられているだけのように。
 がたたん、ごととんと歌う列車に衣擦れの音を隠しながら。
 気のせいかな、とも思った。体勢を無理にひねって、少しずらしてみる。
「……ひ!?」
 腰骨に痺れが走る。相変わらず手は腰の辺りに添えられていて。
 体をひねった弾みで尾てい骨のあたりを撫でられる。
 すでに触れているだけではなく、指先の蠢く感触が伝わってきていて、そのたびにぞわぞわと、腰から脳天にまで痺れが走る。
「……や……やめてくださ……ひぅ!?」
 振り返り、肩越しに不満を訴えるも、蠢く指先に操られるように、吐息がもれる。
 さわさわ、さわさわと動きを感じるたびに、足から力が抜けていく。
 痺れと恐怖で声が出せない。
 今のはやてができることは、ただつり革を握って、じっと声を殺すことだけであった。
 びく、と体が跳ねる。
 腰を触られている感触。それはそのままに、もう一本、タイトスカートの上からさわさわと、尻を撫でられる。
 最初は柔らかく。徐々に大胆に。
 ふにふにと押されながら、指の感触はだんだんと下へ下がっていく。

 や……嫌や……人がたくさんおるのに……こんなんで……ああ……

 ぴちゃ。そんな音がした。聞こえるはずもないのに、確かに自分には、水音が聞こえた。
 ―――濡れている。
 満員電車の中、顔すら見えない誰かに体を好きに弄られ、はしたなく感じている。
 そんな自分の姿が浮かび、背中を黒い喜びが走りぬけた。
「あ、あ、あ、そこ……や、だめっ……」
 口元にこぶしを当て、ふるふると震える体を叱咤しながら。
 ぴちゃぴちゃと、かき混ぜられる音が頭の中だけに響く。
 布越しに感じる体温がもどかしい。もっともっと、この痺れを味わいたい。
 体の一番奥に一度ついた黒い炎は強まるばかりで。

「……逃げないんだ。もっとして欲しい?」
 不意に耳元に言葉を投げかけられる。その声に頭にかかったもやが取り除かれる。
 はぁはぁと息をしながら、必死で抗議をするはやて。
「や……そんなわけ……ないですっ……お願いですから……やめてくださ……ふあぁっ……!」
 眠気はどこまでも思考を蝕み、与えられる感触を過敏に受け止めてしまう。
 がくがくと笑うひざをこすり合わせ、立っているのもやっとという状態だ。
「でもほら……ここ、こんなになってるの……わかるでしょ」
 唐突に。内股に、ぬるり、とした指がこすられる。
 認めたくなんかない。こんな場所で、こんな人に。ああ、でも。
「声出すとばれちゃうかも知れないから……頷くだけでいいよ。
 ……中、こすって欲しい?」

 嫌だ。今すぐにここから走って、逃げ出してしまいたい。大声を出して、人を呼んで。
 それですべて終わって、平穏な自分の場所へ帰れる。そのはずなのに。
 赤く染まった頬と潤んだ瞳で歪んだ情欲に身を焦がしながら。


 気がつけば私は、頷いていた。

 

 

 

 

 


 終点まで開かないドアの窓。その冷たさを感じながら、窓の外の流れる光を見る。
 吐息にこもる熱で、ガラス窓が曇っていく。
 手すりを両手で掴み、あげそうになる声を必死で押し込めながら。
 閉じ合わせたジャケットの内側でシャツのボタンがはずされていく。
 ぷちん、ぷちんと一つ外れるごとに、私の中で、何かが外れていく。
 かきまわされる喜びに身を震わせながら。
「すごいよここ……わかるでしょ、ぐちょぐちょになってるよ」
 言われるまでもない。とうに私の体は陥落していて、されるがままになっている。
 無遠慮に下着の隙間から胸をまさぐられて、吐息を一つつく。
 やわやわともみしだきながら、私の心をほぐすように。
 時折敏感な突起を弾かれて、頭の中に火花が浮かぶ。
「や……や、そこ、弱いんです……堪忍してくださぃ……」
 消え入りそうな声は列車にかき消されて。
 侵入者はなおも、感じる場所ばかりを執拗に責めて来る。
 つ、と太腿を流れ落ちるものに、絶望さえ覚えた。

 ごつごつとした指が私の中で蠢き、壁を擦られるたびとろけそうな甘さが私を襲う。
 もっと味わいたくて、きゅう、きゅうと指を締め付ける自分の体を抑えることもできなくて。
「キミ、こっちの方とかって、経験あるのかな?」
「……ふぇ?」
 急に投げかけられた言葉に反応できず、おかしな声を返す。
 こっちって、なに、と言おうとすると、いきなり背骨をぞわ、と怖気が走った。
「……んっ、んんんっ……!」
 奥歯をぎりぎりと噛み締め、出そうになった大声をかろうじて堪える。
「へえ……気持ちよさそうだね。じゃ、こっちも可愛がってあげるよ」
 この男はどこまで私を辱めれば気がすむのだろう。
 抗議の声を出すことも許されず、ただじっと耐えるだけの私。

 たっぷりと水気を含んだこのいやらしい音を周りに聞かれていないだろうか。
 必死で唾を飲み込む私のはしたない顔を見られていないだろうか。
 こんなこと、いけないはずなのに。
 死んでしまいたいぐらいの羞恥が何度も何度も私の心を苛む。
 それなのにまるで言うことを聞いてくれない体は、もっと、もっとと言わんばかりにいやらしく入ってくる指を締め付ける。
「あ、ああん……お、おしりなんて……許してください……そないな汚いトコ……」
 情けない声だなと思う。肉食動物に懇願する草食動物。食う者と食われる者。
 こんな異常なことがまるで当たり前のように、助けの手が伸びてくることもなく、私は貪られる。
 こりこりと壁越しに指が当たるのを感じて、思わずびくんと体が跳ねる。
 震えるつま先で立っているだけで全部の体力を使い果たしそうな気がした。
「あ、今の好きなんだ? もっとしてあげようか?」
 して欲しい。本当は指なんかじゃなくて、もっと太いので滅茶苦茶にして欲しい。
 でも、私の心の声を正直に言うわけにもいかず。ただ黙って、いやいやをするように首を振るだけ。
「もっと素直にしていいんだよ。ほら、どうして欲しいのか、いってごらん……?」
 何もかも捨てて、乱れてしまいたい自分がいる。
 桃色に染まった視界に頼れるものは何も映らず、堕ちてしまえ、と囁く悪魔が見える。
 いまだ差し込まれたままの侵入者にすべてを支配されながら、搾り出すようにただ一言、死にたいほどの思いで呟く。
「い……いまの……もっかいしてください……私……イきたいんです……!」
 刹那。目の前が真っ白になっていくのを確かに覚え、どす黒い炎に全身を焼かれながら。
 ぴん、とつま先を張り、私はどこまでも、堕ちていった。

 

 金属質な冷たさが心地よい。
 頬に残った熱をすべて吸い取ってくれる気がして、うっとりと頬ずりさえする。
 手すりにもたれかけながら、ひくん、ひくんと体に残る余韻を楽しむ。
 声を上げなかったのが不思議で仕方がない。それぐらい、生きてるうちでも至福の一瞬だった。

『次は、終点、終点です。お忘れ物のないよう、お気をつけてお帰りください……』

 ぼやけた頭でああ、もう終わりなんだな、と思う。
 今だ私の奥に黒い炎はくすぶっていたけれど。
 これで終わる。やっと、家に帰れる。
 その安心感が、私を満たして。
 心地よい笑みを浮かべる私に、確かに一言、声が聞こえた。
「お疲れ様。じゃあ帰るけど……俺、いつもこの時間だから。
 明日、友達も呼んで来るよ。……楽しみにしてる」


 それは戻れない片道切符。
 受け取ってはいけないと必死に警告が響く頭の中で、
 黒い炎に焼かれた体が囁く。

 


 あしたも、ざんぎょう、がんばらなきゃ……

 

 

 

                    Repeat?

 







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