薄く目を開ける。
 ここがどこかなど、もうどうでもいいことだ。
 閉じることも忘れた半開きの唇から、粘っこい液体が零れ落ちる。
 もう、自分が誰なのかも思い出せない。
 何もかも、忘れてしまいたい。
 このまま真っ白になれたら、それはどんなに素敵なことだろう。
 木々を縫うように吹いてきた風に、手首に巻き付いた金の鎖がちゃら、と音を立てた。
 指先を動かす体力もとっくに尽き果てている。
 手足を動かすなどもってのほかだ。
 ――もっとも、体力があった所で動かすことはできないのだろうが。
 かぼそいヒュー、ヒューと言う呼吸音はかろうじて自分が生きている証拠。
 疲れた。だるい。体中が痛い。早く帰りたい。
 帰ったらまずはお風呂に入りたい。
 なんでもいいからこの身体にまとわりつくねばねばを、一刻も早く洗い落としたかった。
 ぐ、と上体を倒した。つもりだった。
 けれど身体は微動だにしていない。
 当たり前だ。
 だって私の身体は、隅から隅までがんじがらめにされているのだから。
 不格好に闇の中、木々の間を縫うように磔にされている。
 衣服はとうに用をなさず、薄く身に纏わせているだけ。
 股を無様に広げ、両手はまるで天を仰ぐように。
 ごろん、とまた音がした。
 何かが転がるような、強烈な異物感。
 もはや疑うこともなく、自分の腹の中でのことだと事実を受け止める。
 わずか数分前のことだというのに、もう遠い昔のように思える。
 けれど事実は変わらない。
 何があったかなど、鮮明に覚えている。
 忘れたいほどに、覚えてしまっている。
 ぎし、と音がした。
 自分が身体を動かしたわけではない。
 だとすれば――あれ、なのであろう。
 あれが何か、といわれれば答えることはできる。
 ただ、認めたくないだけだ。
 ぎし、ぎしと音をさせながら、そいつはやってくる。
 見る勇気も、気力も失せた。
 陸に打ち上げられた魚のように、ただされるがままに。
 ちくちくする感触を手足に感じながら、心は在らぬ方を見つめる。
 ざらりとした、細かいトゲのような毛。
 まるで愛おしむようにまんまると膨れあがった腹を一撫でされ、無性に悲しくなった。
 覆い被さるように、そいつは私の股間を探る。
 もはや感じる痛みもないが、血だらけになっているだろう。
 裂けているかも知れない。
 それほどに凶悪なものを突っ込まれた。
 泣き叫ぼうが暴れようが意にも介さず、ただ注ぎ込まれた。
 ――なに、を?
 決まっている。このごろごろとした異物感の正体だ。
 分かってはいても、認めたくなどないのだ。
 だって私は、女だとしても、人間なのだから。
 じゅう、と何かを吸い上げるような音がした。
 視界の隅で、そいつがごそごそと何かをしている。
 どうでもいい。ただ早く、終わらせて欲しい。
 早く家に帰ってお風呂に入り、録りだめたテレビドラマを見て、暖かい布団に入る。
 そんななんでもないことが、無上の幸せに感じる。
 帰りたい。帰りたい。帰りたい……
 ずぶんという衝撃と共に、野太い足を乱暴に突っ込まれた。
 喉に酸っぱい味を感じて、泣きそうになる。
 ぐじゅぐじゅと、数度抜き差しされて、痛みに意識が飛びそうになった。
 正直、そうできればとても幸せなことだったろう。
 けれどそんな願いすら叶うことなく、私の中に突き込まれた腕はごつん、と一番奥を突き上げる。
 そのままごりごりと擦られて、視界を星が埋め尽くす。
 叫べればどれほど楽なことか。
 けれど私の喉はヒューヒューと鳴るばかりで、意味のある音をなさない。
 ごぷり、と身体の奥で鳴り響く音があった。
 ごぷり、ごぷりとそれは何度も続く。何度でも。
 注ぎ込まれている。今度はさっきと違う、粘りけのある液体。
 熱を持たず、ただ注ぎ込まれる勢いを感じる。
 ああ、そうか。それはそうだ。
 だってそうしなければ、終わらないじゃないか。

 ――卵に精液をかけなければ、受精しないじゃないか。
 
 そこに思い当たると、なぜか嬉しくなった。
 自分を褒めてあげたいぐらいに嬉しくなって、唇が歪む。
 多分、自分は笑っているのだろう。
 正直声を上げて笑いたい気分だ。
 誰もいない公園の奥、林の中で。
 木々に張り巡らされた網に捕らえられ。
 無様に腹に卵を産み付けられ、今まさに孕まされている。
 この、まとわりつく――巨大な雄蜘蛛に。
 ぞろりと、蜘蛛が巨大な腕を引き抜く。大きさは軽く私の腕を超える。
 それほどのものを突き込まれて、壊れないはずがない。
 すでに痛みを通り越して、じんじんとした痛痒感が残るのみだ。
 さらに二回りほどふくれた腹の中から、ぷちん、と奇妙な響きがした。
 ぷちん、ぷちんとそれは瞬く間に広がって、大合唱になる。
 もこり、と皮膚の一部が盛り上がった。
 それを見ながら、私は声もなく笑い続ける。
 この膨れた腹の中で何が起こっているか、手に取るように分かるのだから。
 脳天からつま先までを突き刺す強烈な痛みと、甘いうずきを子宮に感じて、背筋に怖気が走った。
 歯を食いしばる。
 呼吸も止め、ただ襲い来る痛みから逃れるように、身をよじる。
 下腹をちくちくと無数の針が突き刺すたびに、下半身を切り刻まれるような錯覚に襲われて。
 口の端からぶくぶくと泡を吐き、あまりの痛みに目が裏返る。
 ぶしゅ、と飛沫が上がった。
 白く濁った液体と共に、ゴルフボールが私の中から出てきた。
 白と言うより、青に近い透明。
 ぽろぽろ、ぽろぽろと際限なく、いくつもいくつもゴルフボールが出てくる。
 そのたびに襲い来る痛みに、身体は痙攣し続ける。
 私の中から出てきたゴルフボールは、無様に投げ出された両足に取り付いて、丸い身体で器用によじ登ってきた。
 奇妙なことにそのボールには、四対八本の足が生えていて、短いながらも触覚のようなものが見える。
 よく見れば目と顎のようなものも確認できた。
 そんなわけがない。
 だって私は、人間なのだから。
 そんなわけがあるわけ、ないじゃないか。

 ――私が、子蜘蛛を産まされているなんて、あり得ないじゃないか。

 腹の膨らみは一向に減らず、私はいつまでも苦痛を味わい続ける。
 足にまとわりつく子蜘蛛はどんどん数を増し、肌を埋め尽くすほどに。
 その内に一匹がかちかちと顎を開け、肌に噛みついた。
 苦痛を覚悟した私に、しかし一向に痛みは襲ってこない。
 痺れているからとか、そういう話ではなく、噛みつかれる痛みも、蜘蛛の脚の感触も、何も感じない。
 不思議に思っていると、傷口から血が噴き出た。
 ――しかし、血と思ったそれは、何かピンク色をした、奇妙などろっとした液体だった。
 子蜘蛛は嬉しそうに噴き出たピンク色にたかり、綺麗に掃除するように嘗め取っていく。
 そのうちに至る所からピンク色が吹き出し、私の足は見る間にしぼんでいく。
 なすすべもなく、呆然と見守る中、私の胴体からは二本の皮でできた暖簾がぶら下がっているだけになった。
 ふと横を見れば、私の肩からはマフラーが生えていた。
 そのマフラーの先には手袋が付いていて、おかしなことに金色の鎖――私のブレスレットが巻き付いているのだ。
 ……これは、夢だ。
 そうだ、夢なんだ。
 きっと電車の中でうたた寝でもしてしまってるに違いない。
 だって、そうでなければ。

 わたしがまだ、いきているはずがない。

 もうさっきからずっと心臓の鼓動も聞こえず、呼吸すらしていない私が、なぜ生きているというのか。
 ゆさ、と網の動きに釣られて揺れる身体からは、たぷんたぷんと液体の音がする。
 閉じることができなくなった口から、わさ、と子蜘蛛が這い出てきた。
 笑いが止まらない。おかしくて仕方がない。
 こんなことが、あるものか。
 ぬ、とさっきの雄蜘蛛が視界を埋める。
 かちかちと開けられた顎の奥から、糸を引いて管が突き出てきた。
 蜘蛛はもぞ、と首を動かすと――躊躇もなく、私の耳へと突き刺す。
 ぱぁん、と弾けるような音は、多分鼓膜が破れた音だろう。
 視界がぶれると共に、そのままブラックアウトして、何も映らない、無の世界へと変わる。
 ああ、よかった。本当に良かった。
 雄蜘蛛がじゅるじゅると何かを吸う、この嫌な音を聞かずにすんだのだから……


 鳥のさえずりと共に、公園に朝が訪れる。
 人の来ない奥の林は静かで、時はいつも穏やかに流れる。
 その場所も勿論静かで、昨夜起きた喧噪など何一つ残ってなどいない。
 違いと言えばただひとつ、朝露に濡れ、日の光に煌めく、金色の鎖が草むらに残されているだけだった。

 


   『魔法少女ミタマ』

       Act.2 「かえりたい」

 

 

 流れゆく雲を見る。
 見慣れた景色。変わらぬ風景。つまらない時間。
 そう思ってた時がすごく昔に感じる。
 こうして見ていれば変わらないなんてことはない。
 雲の形は刻々と変わり、木々はそよげばざわついて、オーケストラを奏でる。
 毎分毎秒ごとに移りゆく、二度と見ることはない光景。
 生まれて十五年でそんなことに気づくのは、果たして早いのか、遅いのか。
 ただ自分の席から見る外の風景。
 胸が痛くなるほどに、寂しく感じる。
 あるべき姿が、そこにいないふぁりゃ――!?
「おいこら美珠ー」
「ひ、ひらいひらい! ふぁえふぉなにふんのー!?」
 痛い痛い、冴子何すんの……と叫んだつもり。
 モノローグに割り込んでくるとかなんて横暴な。
 引っ張られたせいでひりひりするほっぺたをさすりながら、冴子を睨む。
「アホ面下げて一日中そっちばっか見てんじゃないの。ハチ公かあんたは」
「……うー……」
 あたしの左の席。
 今は人のいない、空っぽの席。
 そこに誰もいない、ただそれだけが、こんなにも胸を苦しめる。
 結局昼を過ぎ、下校時刻になってもその席の主はやってくることはなかった。
 正直思い出したくもない、前日の出来事。
 考えれば考えるほど、想像の天秤は悪い方へ傾いて、心は重くなるばかり。
 ……心配。
 そう、心配、は心配、なのだろう。
 会いたい。会って話がしたい。
 誰にもできない話を話す相手が、誰か欲しかった。
 ふと、目の前の親友を見上げる。
 ……冴子、なら。
 そこまで考えて、ぶんぶんと頭を振った。
 できるわけが、無いじゃないか。
 昨日から立て続けに起こっている奇妙な事象の連続。
 冴子になんて、できるわけが、ないじゃないか。
 そうしてあたしは何も言えず、また黙って俯いてしまう。
 黒くわだかまる気持ちに、何の整理も付かないままに。
 ふう、と冴子のため息が耳に届く。
「そんな気になるなら、電話でもかければいーじゃん。携帯の番号くらい聞いてないの」
「……うん、聞いてないの」
 そもそも電話ってなんか苦手なんだ。
 待ち合わせの連絡に使うくらいで、話をするなら直接会えばいいって思っちゃう。
 それに――番号とか恥ずかしくて聞けなかったし。
「なら中学の時の連絡網とか、色々あるでしょうに。うじうじするより、動いちゃいな。あんたらしくもない」
「冴子……」
「どーせ寝過ごしてそのままズル休みとか、そんなとこでしょうよ。あの唐変木」
 ……うん。きっとそうだよ、ね。
 電話してみたらきっと元気な声で、おう、どうした、野守、なんて――いってくれるかな。
 あたしの話、笑わずに聞いてくれるかな。
 この嫌な気持ちも――晴れるのかな。
「ほれ、そうと決まったら帰った帰った。良い子は下校のお時間ですよ」
 そんなことを言いながら、冴子はあたしのカバンを手にとって、ぎゅっと押しつけてきた。
 なんだかちょっと勇気がわいてきた気がしてきて、うん、そうだね、とだけ、短く返す。
 ばたばたと乱暴に鞄にものを詰め込む。
 その間、冴子はずっと私を見てた。
 何を言うでもなく、ただ、見守るかのように。
 支度の終わったあたしは、じゃね、とだけ伝えて、急ぎ足に教室を出て行く。
 ドアを押し開けながら立ち止まって、一度後ろを振り向いた。
「冴子ー」
「ん?」
 不意に声をかけたあたしに、冴子はきょとんとした顔を向けて。
「ありがと」
 そう一言だけ告げて、返事も待たず、廊下へ駆けでる。
 そうだ。動かなきゃ、進まないんだ。
 一歩ずつでも、一秒でも。


 その姿を見送って――冴島冴子は少し温度を上げた頬をぽりぽりと引っ掻いた。
 ふう、と肩の力を抜いて、視線をドアから外す。
 あとはなるようになるのだろう。
「青春だねぃ。あたしにもどっかにいい男落ちてないもんかな」
 そう呟いて、自分の席へ向き直る。良い子は下校のお時間なのだ。
 がさごそと帰り支度をしていると、むやみに周りの話が耳に入ってくる。
 聞きたくなくとも聞こえるのだから仕方がない。
 内容は取るに足らないものばかりなのだが。
「絶対赤マントだって。あたし見たんだから」
「口裂け女じゃないの? 二組の本山が襲われたって」
「あたしは人面犬が『エサくれ』って噛みついてきたって聞いたよ」
「駅前の公衆トイレに花子さんがでたって」
「UFOに攫われたんだって、絶対!」
「かゆ  うま」
 ……流して聞いていたがひどい噂話ばかり流れているような気がする。
 日本中から怪奇現象を集めてきたような荒唐無稽。
 ここ最近ずっとそうだ。
「……まぁ、想像は個人の自由だしね」
 冴子にしてみればどれもこれも一笑に付される程度のものである。
 割と彼女はリアリストだった。
「ただ、まぁ……なんかあるんでしょうよ」
 結果があるからには、原因がある。
 都市伝説だとか、七不思議とか、そんな曖昧なものではなく。
 そうでなければ、あるはずがないのだ。


「人が突然いなくなるなんてことが、こんな頻繁に起こるはずないんだからさ」

 

 

 


「ただいまー!」
 玄関を開けるなり、そう叫んで靴を乱暴に脱ぎ散らかす。
 奥からおかえり、と返事が返ってきたような気がするけど、それより難題がいくつもあるわけで。
 ととと、と階段を早足で上って、自分の部屋へと急ぐ。
 目下の所最大の問題の種がそこにあるのだ。
 ノブに手をかけ、一度すうはあと深呼吸をした。
 昨日のことは、夢じゃない。多分。
 誰に話したって笑われそうなことばかりだけど、でも。
 ――起きてしまったことは、けして夢物語なんかじゃ済まされないんだ。
 意を決して、ノブを回し、戸を開く。
 ……最悪。
 中を一目見た感想はそれだった。
 今朝まで綺麗にしてあった部屋はしっちゃかめっちゃかに荒らされ、床は一面の紙で足の踏み場もない。
 まず目に入るのは広げられた新聞。雑誌。辞書。参考書。漫画。レディコミ。ハーレ○インロマンス。
 テレビはつけっぱなしだし、CDラジカセからはDJが素敵なトークをまくし立てている。
 正直、部屋を間違えたかと思ったほどだ。
 我ながら頬の筋肉がひく、と見事に引きつった。
 惨状の二文字を見事に体現した部屋の中、ちょこんと真ん中に鎮座する影がある。
 耳をひょこひょこ動かし、熱心に水木しげるの妖怪大図鑑を読みふける姿。
 ゆらゆらと揺れる長いしっぽが特徴的なその黒猫は、立ち尽くすあたしにようやく気づいて、足下へててて、と近寄ってきた。
 お行儀よく座ったかと思うと、ひょこっと頭を下げる。
「お帰り下さい、ご主人様」
「いや違う。何もかも間違ってるから。ていうかどこでそんなの覚えたの」
 見紛うことなく、その声は目の前の黒猫が発したもので。
 けれど猫が喋っているとかそんなことに驚くよりも先にツッコミを入れずにはいられない。
 昨日からずっとこんな調子なのだからファンタジーも案外夢のないものだ。
 一瞬だけでもうわ、可愛いとか思った自分を即座に恥じた。
 巨大なため息をついて、とりあえず後ろ手にドアを閉める。
 家族にでも見つかろうものなら大変だ。
 どこに置こうとさして違いもないので、適当にカバンをぶん投げて、制服のまま椅子に腰掛けた。
 これじゃ着替えもろくにできやしない。
「まぁ、とりあえずただいま。で、ちょっとは進展したのかな」
 大まじめに猫へ話しかける自分を想像すると、ちょっとくらっと来る。
 人に見られたら長いこと笑い話のネタにされるんじゃなかろうか。
「時間あったから、随分言葉覚えましたアルよ。まだ単語苦しいです、けど」
 発音もあやふや、ところどころに妙な遊びが見えるものの、なんとか意味の伝わる言葉をつっかえつっかえ、猫は話す。
 なるほど、随分進展はあったようだ。
 ちなみにこの猫は尻尾が二本生えているという変わり種なのだが、器用に絡ませ、毛でカモフラージュすることによって一本に見せかけている。
「ところで身体の方は大丈夫なの。衰弱なんてそう簡単に治るものじゃないんだよ」
「平素は格別のご支援を賜り、厚く御礼申し上げます。現在の状況は良好です」
 そういって、猫はまた頭を下げる。
 言ってることはわりかし無茶だけど、猫は猫なりに感謝しているみたい。
「時にこの『そーどますたーやまと』、続きどこです? なの?」
「ないし。それ打ち切りだから」
 小首をかしげる姿は非常に愛らしいのだが、この猫はいちいち言動が全てを台無しにしてしまう。
 あたしも実はペットとか飼いたいなとずっと思ってたのだ。
 家が獣医で何を今更、とか思われるかも知れないが、だからこそペットなんて飼えない。
 においで機嫌を損ねたりする動物なんてそれこそ星の数ほどいるし、なわばりを主張して喧嘩なんかしてもらっては困るのだ。
 うちに来る動物たちはむしろお客様で、なおかつ怪我や病気を患っている患畜ばかり。
 可愛いなんて悠長なこと、本当は言ってられないのだ。
 彼らの命を預かるのがうちの商売なのだから。
「そうだ。あなた名前なんていうの」
 すっかり忘れていたが、猫猫言っていてそんなことを聞くこともしていなかった。
 なんせ最初はひどかったのだ。
 意味のあるような言葉を聞けたのは挨拶だけで、あとは聞いたことのない言葉を延々と喋るばかり。
 あたしの話を復唱したり、簡単な読みはできるようなので、まずは日本語のお勉強会から始まった。
 ひととおりの読みができるようになったころにはもう日が昇りかけていたのだけど、あとは勉強しますという言葉を信じて部屋に置いてきたのだ。
 ……これほどの惨事になるとは思っていなかったけど。
「これは自己紹介が遅れまして恐悦至極の至り」
 どうやら定型文をかたっぱしから覚えたらしい猫は、珍妙にかしこまり、前足を揃えてあたしに向き直った。
「それがしは        と申すもの。呼ぶ時はさんをつけろよデコ助野郎」
「……は?」
 語尾に不穏当な言葉が付いたような気がするけどそこはあえて無視する。
 けど。それにしても。
「いやごめん、よく聞き取れなかった。お名前もう一度言ってくれる?」
「拙僧は        です。ます。」
 ……これは、どう表現したらいいものだろう。
 確かに猫がなにか単語――おそらくは名前――を口にしたことはわかるのだが、それを理解することができない。
 鼻歌のように音だけでもなく、間延びした歌のようでもなく。
 かっちりした単語なのだと言うことまではわかるけれど、それを認識できない。
 まるで狐ならぬ猫につままれた気分。
「そ、そうだ、ちょっと紙に書いてみて!」
 そう気がついて、慌てて机の上からシャーペンを渡す。
 猫はぴこぴこと耳を動かすと、器用に後ろ足で立ち上がり、前足で挟むようにしてペンをつかんだ。
 うわやだすっごい可愛い。
 猫はそのまますとん、と先を足下の紙へ落とすと、すらすらとペン先を走らせた。
 書き終えたらしいそれを受け取って、視線を落とす。
「……だめかぁ」
 そこにあるのは奇妙な文字列。
 ところどころにこれはアルファベットなのではないか、程度のものはあるけれど、全体としてはまるで読めない単語だった。
「これeかなぁ……なんでいきなり筆記体のFとか出てるんだろう……」
 わかる文字が所々にあるせいで、猫の落書きと笑うことすら出来やしない。
 ぎりぎりで読み取れる文字は――i、筆記体のF、頭に点々の付いたe、それにLっぽいの。
 結局三分の一も解読できないと言うことになる。
 なんで単語の真ん中に大文字があるのかとかも全く理解不能だ。
 結局理解することを諦め――ぱたんと文字の書かれた本を机の上に置く。
 柴田亜美のサイン本だった気がするが今は意識の外へ出しておこう。
「決めた」
 ぎし、と椅子を回して猫に向き直る。
 迷いはもう消えていた。
「あなたは今からライフって名前ね」
「え、いや小生は        と――」
「ラ・イ・フって名前ね」
 L、i、F、e。
 読める文字はこれしかないのだ。
 だったら読める名前にしてもバチは当たらないのではないか。
 きっとそうだ。だから決めた。
「……はぁ、まぁ……その件につきましては当方と致しましても前向きに検討する所存ではございますが……」
 言い回しが気にはなるけども、どうやら押し切ったらしい。
「じゃそーゆー事で、決定! ……ってあたしの名前言ったっけ?」
「ミタマ、と呼ばれているような気配でござりけり、療養中に耳に入れたりますれば」
「うん、美しい真珠と書いてミタマ。よろしくね」
 一晩中あーだこーだやってたのに、未だにお互いの名前も知らなかったなんて。
 なんだか無性におかしくなって、今日の張り詰めた空気が和らいだ気がした。
 そうだよね。考えるより先に行動しちゃった方が、いい結果が出ることだってあるんだ。
 足踏みしてたって、前には進めないんだから。
「そんでライフ、聞きたいことはいっぱいあるんだけどさ。まずは……」

 これだけ苦労したんだから、今度はあたしが困らせる番だ。
 そうしてそこには、矢継ぎ早に質問をするあたしに、目を白黒させて答える黒猫の姿。


 なんとなく、この子とはうまくやっていけそうな予感がしていた。

 

 

 

 薄暗い廊下に、電話のベルが鳴る。
 その音に、床張りの廊下へ直に座っていた影がもそり、と動いた。
 静かな家に響く音。
 耳障りにも聞こえるそれを、ただ頼りに。
 四回、五回と音は続く。
 六回目を遮るように、影は受話器を持ち上げた。
「――はい、秋月です……どちらさま?」
 短い数度のやりとりの後、受話器を持った影はもといた廊下の奥を振り返る。
 そこにはやはり廊下へ直に座る、大きめの影が存在していた。
 コードレスの子機をつまみ、板をきしませながら、影はゆっくりと歩く。
 疲れた風で、大きな影へと差し出した。
「ヨウ、電話。あんたに」
 ヨウ、と呼ばれた影はそこでようやく顔を上げる。
 声を出すこともなく、胡乱な表情で子機を受け取ると緩慢な動作で耳に当てた。
 ふ、と吐き出した息にはこの空気の重さが含まれているようで。
「もしもし、代わりましたけど……ってなんだ野守か。どーした?」
 名前を呼んだ声は、トーンを一つあげる。
 日常を思わせるような、いつも通りの声。
 この時だけ、廊下が明るくなった気がした。
「いや悪ぃ、ちょっと留美が熱出しちまってさ。大したこたぁねーんだけど、一応付き添いって名目でな、うん」
 電話越しに微笑む影と対照的に、もう一つの影は目線を伏せ、また廊下へ座り込み、膝を抱える。
 何もかもから逃げ出してしまいたい気持ちを抑えようもなく、目は闇を見続ける。
 さら、と流れる長い黒髪を手で掻き上げ、耳の後ろへと回した。
 ――それで何が変わるわけでもないというのに。
「ああ、俺は全然へーきだし。明日は行くからよ。じゃまた、な」
 数分の会話の後、プツ、と音を残し、通話は途切れる。
 そうしてそこにはまた、重苦しい空気が残る。
 先ほどの会話がまるで別世界の出来事のように。
「――可愛い声じゃん。なに、彼女作ったのあんた」
「ちげーよバカ。ガッコのクラスメイト。隣の席の奴だよ」
 ふうん、と鼻を鳴らして、再び静寂が戻る。
 二つの影が背にする扉の奥。
 そこから漏れ出る声に耳を傾けるために。


 カーテンを閉め切った部屋。窓の外からは雨の音。
 明かりはついているものの、湿った空気は意味もなく光を吸い込み、闇よりも暗く感じられる。
 ベッドの上、この部屋の主は上体を起こし、目の前の料理を見つめる。
 もう幾分もそうやっている。料理からはすっかり熱も冷めたというのに、一口も手はつけていなかった。
「……ミオ姉」
 薄く唇を開き、呼びかける。
 さほど広くもない部屋で、ミオ、と呼ばれた女性はすぐ近くの椅子へ腰掛け、暖かくも厳しい目で、ベッドの上を見ていた。
「……もう、食べたく、ない」
 ぼそ、とつぶやかれた言葉には力なく、絶望すら含んだように思える。
 焦点の合わない目はどこも見ておらず、どこか他の世界を見ているのかもしれない。
 その様子に息をつき、年長の女性――美桜は強めに、しかしできるだけ優しく、声をかける。
「だーめよ留美。食べなきゃ死んじゃうんだから。そんなわがまま許しません」
 たしなめる声にも、留美は無反応に、料理へ目を向け、あらぬ方を見続ける。
 ただ薄く上下する胸だけが、この末妹がかろうじて生きている証拠。
 普段は生気に満ちあふれた頬からは色も抜け、まるで死人のように。
 現実から目を背けるように、料理から目をそらす。
 カーテンに遮られた空。
 今は暗く、しと降る雨に隠されて。
 この空模様にも似た、どんよりと曇った瞳。
 端からはきらりと輝く雫が一つ、また零れ落ちる。
 見ているのは空よりも遠く、遙か遠く。
 胸の苦しみよりもなお痛む、心の奥。
「……ミオ、姉」
 掠れた声で長姉の名を呼ぶ。
 幾度呼ぼうと慣れることのない、家族の名前。
 美桜は辛抱強く、続く言葉を待つ。
 いつまでも降り続く、この雨のように。
「もう、やだ、よ。食べたく、ないよ……こんなのって、ないよ」
 声に嗚咽が混じる。
 喉の奥から絞り出した音は懸命に胸の内を訴えて。
 美桜はふう、と息を吐くと――ベッドへ寄り、そっと末妹の手を握った。
「食べなさい、留美。あなたの義務なのだから」
 ぱたぱたと雫が零れ落ちる。
 窓から戻し、姉へと向けた視線は何かに怯えたように。
 声もなく、首を振る。
 けれど長姉は強い目で、真っ直ぐに末妹を見つめる。
 決意さえ込めて。
「……たい」
 小さな、本当に小さな呟き。
 唇は動き、同じ言葉を紡ぎ続ける。

 ――かえりたい。

 誰に言うでもない、魂の叫び。
 心ここにあらぬ風に、遙か遠くを夢見る。
 かえりたい。かえりたい。かえりたい……
「留美」
 ぎゅ、と握る手に力がこもる。
 たおやかなその手のどこにそんな力があるのかと思うほどに強く、強く。
 痛みに顔を上げた末の妹は、姉の顔を見て、動きを固めた。
 しばしの間、時が止まる。
 ぐす、と鼻をすする音が響いて、留美が口を開いた。
 ごめん、なさい、と。
 その言葉を聞いた美桜は、ようやくに手を離す。
 また、元の優しい目で妹を見守りつつ。
 留美はかすかに震える手で、緩慢に料理を口元に運ぶ。
 口内へ半ば押し込むように入れ、咀嚼して、喉へ流し込む。
 噛みしめる音。飲み込む音。
 何度か続いた後に、ふと手が止まった。
 再びぼろぼろと流れ出す涙に押しつぶされるように、どうしようもなく、言葉が籠れ出る。
「……ミオ、姉」
「なぁに」
 辛抱強く、子供の話を聞くように、美桜は全力で消え入りそうな妹の声に耳を傾ける。
 一言も、ひとつの音も漏らさぬように。
「……おい、しい、の……」
 ぐしぐしと、目じりをパジャマの袖で幾度もぬぐう。
 拭いても拭いても、それはいつまでも溢れてきて。
「ミオ姉、おいしい……おいしい、の。なんで、なんで……こんなに、美味しいなんて思うの」
 また、料理を食べる手は進む。
 一口、一口食べるごとに、きらきらと雫を振りまいて。
 遙か遠く、空から来る雨のように、止めどもなく降り続ける。
「ごめんなさい、ごめんなさい……おいしいの、おいしいよ、ミオ姉……ごめんな、さい……」
「……謝罪も感謝も、相手が違うよ。せめて、覚えておいてあげなさい。ね……」
 人工の光が照らす中、姉の視線に守られながら。
 一口、二口と食事は続いていく。
「……お風呂、沸かしとく。食べ終わったら入りなさい」
 そう伝えて、美桜は立ち上がる。
 ふらつく足下を確かめるように、一歩一歩、慎重に部屋の戸へ向かって。
 ぱたん、と戸が閉じた後、部屋には一人、留美が残るだけ。
 ぽろぽろと雫を零しながら、押し込むように、食事は続いていく。
 何かから逃げるように、ごめんなさい、と呟いて。
 雨音に重ねるように、嗚咽をまき散らして。
 一人の部屋の中、言葉は続いていく。

 ごめんなさい、と。

 


 部屋を出る姉を見送って。
 冷たい廊下にはまた、二つの影。
 背後の部屋からは、妹の声がする。
 重苦しい空気は晴れることはなく、影はただ目の前の闇を見続けた。
「……ねぇ、ヨウ」
 気怠げに、影が薄く整った唇を開く。
 けれど呼びかけたはずの隣人は、まるで無反応で。
「あんた、それさ」
 細い指はゆっくりと動いて、隣人の口元を指さす。
 そこにはぴこぴこと動く、ハッカパイプがくわえられていて。
 ぎょろ、と視線だけを向けて、影は続く言葉を待つ。
 背中越しに伝わる嘆きから、目を逸らすように。
「似合ってないよ」
「うるせ」

 

 降り続く雨は、いつしか雪へと変わっていた。

 

 

 

          To Be Continued...

 







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