目の前には、ただ赤。
 壮麗を誇った草原は炎に巻かれ、赤い柱をいくつも立ち並べる。
 彼方から響く悲鳴を、狂った業火が覆い隠すように打ち消す。
 一切の貴賤無く、老若男女分け隔て無く、すべて平等に裁きが下される。
 世に誇るレン高原の星空は、今は赤く焼けて、血の海のように。
 細々と暮らしていた人々の小さな営みは、一夜にして滅び去っていた。
 目をやれば、邑の中央に位置したご神木が燃えている。
 その根本にはついさっきまで暮らしていた、自分たちの家があるはだった。
 宮廷とは名ばかりの、木と布で作られた移動式住宅。
 今は崩れ落ちて、残骸が虚しく煙を燻らせるだけ。
 一帯は残らず熱風が吹きすさび、涙すら頬を伝うことなく空へと還る。
 抱きかかえる腕の中の小さな身体は、苦しげに胸を上下させている。
 ふたつ下の妹だ。
 早くに気を失ってくれて、良かったのかも知れない。
 ――こんな事に、誰が耐えられるというのか。
 よくお菓子をくれたニイ婆。面倒見のいい兄貴分だったラジ兄。歴史担当のカラ先生。
 みんなみんな、死んでいった。
 こんな、ただ王族と言うだけの、なんの力もない、自分たちを逃がす為に。
 揺らめく炎の中、影はわずかに六つ。
 腰まで届く長い髪を揺らし、凛とした顔で遠くを見つめる長女。
 いつもの快活な顔は影を潜め、次女はくずおれて声をかみ殺しすすり泣く。
 三女は早くに気を失い、兄である自分の腕の中でか細い呼吸を繰り返す。
 乳母であり、教育係でもあった侍女はいつものように優しく微笑んでいて。
 この邑の長、女王にして四人の母親は一心に神へと祈りを捧げている。
 数にして五百に満たない、小さな邑。
 そのすべての住人はことごとく凶刃に倒れ、火に焼かれ、逃げおおせた者もなく、命を落としていた。
 襲撃者は慈悲もなく、逃げ惑う姿を躊躇無く屠り、虐殺を繰り返した。
 残った者は、わずかに六名。
 ここにいる、六名。
 それだけが、この民族の生き残りすべて。
 ――頭では理解もする。
 彼らを憎むのは間違っている。恨むのは筋違いだ。
 彼らにはこうするだけの理由があったのだから。
 それがなによりもよくわかっているのは他ならぬ、自分たちだったのだから。
 ……だがそれで、納得ができるというのか。
 ただ生きていく。この世に生まれてきて、それが許されないというのなら。
 どうして我らは、生まれてきた?
 なぜ我らは、存在した?
 一体何が悪かったというのか。
 わからない。何一つとしてわかることはない。
 もう流せなくなった涙の代わりに、握りしめた拳から血が滴り落ちる。
 それすらも地へと染みこむことなく空へと還るけども。

 ――わすれる、ものか。

 ここで過ごした日々。
 皆の笑顔。
 綺麗だった、高原の空。
 忘れない。絶対に、忘れない。
 せめてそれだけを、堅く心に誓う。
 何もできなかった自分への、罰として心に刻む。
 朗々と響き渡っていた女王の声が止んだ。
 それは神への祈りが届き、儀式の準備が八割方整ったことを示す。
 古の邪法。そんな物に頼るしか、もはや手は残っていない。
 成功の確率など知る由もなく、結果どうなるかなどわかるはずもない。
 希望とすら呼べぬ細い糸にすがりながら、命の火を繋ぐ。
 生き延びること。それがただ一つ、自分たちを逃がしてくれた者達の願いだったのだから。
「お母様。長たるナゴーブの名において誓います。弟たちは必ず守ると」
 凛とした上の姉の声。
 女王を見つめる姉の瞳は誇りと気品にあふれ、このような状況にあってなお強さを感じさせた。
 はるか遠く、鬼火がひとつふたつ、ゆらゆらと揺れながら蠢く。
 ややもするとまたひとつ、またひとつと数を増やして。
 まるで死神の足音のように。
 無念。ただただ、悔しさだけが胸の内を埋め尽くす。
 歯を食いしばりうなだれていると、ぽんと頭の上に大きな手のひらが置かれた。
 顔を上げると、そこにはいつもの豪快な笑顔で侍女のウィノがいて。
「ほぉら、なんて顔してるんですか、ぼっちゃま。そんな子に育てた覚えはありませんよ?」
 ――ああ。
 自分は最後まで、叱られたままなのか。
 まだ、まだなんの恩も返してはいないというのに。
 手を取り、強く握る。
 大きくて暖かい、大好きだったこの手。
 言葉もなく、ただ触れることで、心に刻む。
 忘れるな、と。
「……ごめんなさいね、ウィノ。他に手があれば良かったのだけれど」
 投げかけられる女王の声。
 悲しみに満ちた声は無力な身を責めているようで、弱々しく聞こえた。
「いいえぇ、どのみち同じことなんです、女王様。どうせなら最後に一つ、ぼっちゃま達の役に立ちたいモンですわ」
 からからと、気持ちの良い笑い声。
 いつもいつも聞いていた。明るい声。
 無くすことなど考えもしなかった、大好きな声。
 揺らめく鬼火はすべてを刈り取ろうと、数を増やしてだんだんと近づきつつある。
 ふう、と息を吐き、女王が羽織った法衣を翻した。
「では行きなさい。大いなるニョグサのご威光は常にあなたたちと共にあります。それを忘れないで」
 母であり、邑の長であり。
 時に優しく、時に厳しく。
 最後の女王ヘール・タルはどこまでも慈悲深い微笑みをたたえ、静かに一族に伝わる宝剣を振りかざした。
「サルドルラル様」
 侍女に名を呼ばれた長姉は、強い意志で顔を上げて。
「ヘルヘー様」
 次女はゆっくりと視線をあげて、赤く腫れたまぶたで前を見る。
「イネーフ様」
 気を失ったままの三女はか細く呼吸を繰り返し、ただ静かに。
「ツェウェル様」
 妹を抱きかかえた自分は、なすすべもなく、無言でたたずんで。

「愛していますよ」

 どん、と。
 背中から胸を女王の宝剣に貫かれながら、それでも侍女は微笑んでいた。
 それが何よりの、幸せであるように。
 力の限り、名前を呼んだ。
 実際は枯れ果てた喉で、どれだけの音が出たのかはわからないが。
 地面に描かれた法円へとふりかかる血飛沫はまるで流せなくなった自分たちの涙の代わりのようで。
 触媒を得て発動した古の禁術は、まばゆい光で周囲を照らす。
 周囲の赤をすべて消し去るように、法円はどこまでも強く強く光り輝いて。
 人の命を糧に、わずか四人をいずこともしれぬ地へと飛ばす。
 その先に待つものが希望でも、絶望であろうとも。
 微笑む二人の母に見送られながら、姉弟は旅立つ。
 生きること、それだけを祈りながら。
 薄れゆく風景の中、槍に貫かれる女王の姿が見えた。
 何本も何本も、体中余すところ無く貫かれ、切り刻まれ、それでも母は――女王は笑っていた。
 すべてをやり遂げたように、満足した顔で。

 憎むことは間違っている。
 恨むのは筋違いだ。
 だからせめて、俺は忘れない。
 絶対に、忘れない。

 あの日のことを、忘れない。




   『魔法少女ミタマ』


               Act.1 「わすれない」





「みーたーま、美珠ってば、起きろコラ」
「……んぁ」
 名前を呼ばれて目を開ける。もう朝かぁ。
 しぱしぱと何度か瞬いて、顔を上げる。
 するとそこには、見知った顔。
 髪を頭頂部で結い上げているにもかかわらず、腰まで届くほどのロングポニーテールをした友達。
「あー、おはよー冴子ぉ。いい朝だねー」
 すぱぁんと、いい音がした。
 頭を教科書ではたかれたはずみで、机に打ち付けた額がじんじんと痛む。
「い、いいいいいい痛い痛い! なにすんの冴子!?」
 心底あきれたような表情で、ため息を一つつきながら、冴子はこめかみに指を寄せた。
 ……あれ、なんで冴子がうちにいるの。
「いい加減起きなってば。もう授業終わったよ」
「はれ」
 そういわれて周りを見る。
 がやがやと賑やかな一年三組の教室。
 席を立ち始めるクラスメイト。
 なにより私もパジャマじゃなく、しっかりと高校の制服を着てる。
 ……ひょっとして授業中に寝てしまったのだろうか。
 教室の前にかけてある時計は三時半を回ろうとしていた。
 おかしいな。お昼を食べた記憶まではあるんだけど。
「そんな難しい顔しなくても寝てたことぐらい解れ。後ろでいびきまでかかれてあたしゃホトホト困り果てましたよ?」
「い、いびきなんてかいてないもん! 冴子のすかぽんたん!」
 必死で抗議する私を横目に見ながら、冴子は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
 なんかもう意地悪な継母とかそんな役がしこたま似合いそうな。
「すかぽんたんとか数年ぶりに聞いたぞその死語。お前いつの時代の人間なんだよ」
 左の耳に届く、低めの声。
 横を向くと、椅子を斜めに、手を頭の後ろに組んで、秋月くんが伸びをしていた。
「あれ。秋月くんまだ残ってるの?」
「いちゃ悪いのか。お前のマヌケな寝顔があまりにも面白かったんでな」
「そーだよねー、よだれまで垂らしてぐーすか寝てるんだもん。何度蹴り倒そうと思ったことか」
 しまったヤブヘビ。
 悪代官が二人に増えてしまった。
 いや、てゆーか寝顔て。寝顔て。
「さ、冴子気づいてたんなら起こしてよぉ!」
 ほとんど涙目になりながら、前の席の人間に文句を言う。
 いや悪いのはあたしなのは解ってるんだけど。
「んー、そうだねぇ。愛しの秋月くんにイビキとか聞かれてたんじゃ死にたくもなるわねぇ」
「いやちょっと待て冴島。さらっと言ってんじゃねーよ」
「そ、そそそうだよ冴子! あたしイビキなんかかいてないもん!」
「お前も落ち着け。あと突っ込むところ違うから」
 顔から火が出るように恥ずかしい。
 ううう、なんたる失態……
「どうせ寝てないんでしょ。また家の手伝い?」
 ふ、と息をついて、冴子が声のトーンを落とす。
 なんやかや言って、この娘はこの娘なりに心配してくれてるのだろう。それだけは解ってるつもりなんだけど。
「あは、でもそれほどじゃないんだよ、お姉ちゃんと交代で見てたから。シェットランド・シープドッグの成犬でね、すっごいふわふわしてて、可愛いの」
 うちは獣医をしてる。
 時々飛び込みで急患が運ばれてくるときがあるんだけど、目が離せない状態の時は私とお姉ちゃんが交代で患畜の様子を見ることになってるんだ。
 動物は大好きだから、見てるだけで全然苦にはならないんだけど、それでもやっぱり寝不足は堪える。
 そんなわけで授業中、いきなり気を失うように寝てしまうことが多々あるわけで。
 中学からの親友、冴島冴子はこんな私にいつも気を回してくれているのでした。
「家の手伝いとはいえ、毎度毎度ご苦労なこった。動かない犬と一晩中にらめっことか俺ぜってーできねー」
「ふうん」
「へえ」
 秋月くんの気怠げな言葉に、思わず私と冴子の声が重なる。
 冴子はしたり顔で、珍獣を見るような目つきで秋月くんを見てる。
 多分私も似たような顔をしてるんだろう。ほっぺたが緩くなってるのを自覚しつつ。
 そんな私たちの視線がいたたまれないのか、がたんと椅子が鳴る。
「ぷくくくく。ですよねー秋月ってば硬派ですもんねーふひひひひ」
 口元を押さえる冴子の声は明らかに笑っている。
 肩が小刻みに震えるとかホントは爆笑したい気分なんだろう。
「何笑ってんだ冴島。大体犬だとか猫だとか、そんなもんは軟弱な奴が飼うもので――」
「わ、笑ってない笑ってないうぷぷ。お強い秋月にはペットとか邪魔だもんねくくく」
「秋月くんち団地だもんね。住宅事情は仕方ないよー」
「そうじゃねえだろ野守!? 事情とかじゃなく、男の生き様っつーかよ!?」
 フォロー入れたつもりなんだけど、何だかお気に召さなかったらしい。
 よくわからないけど、まぁいろいろあるってことなのかな。
 にこにこと温かい目で見守っていると、秋月くんはカバンをひっつかんで勢いよく立ち上がった。
「ひーひ−。あれ、秋月どったの」
「うっせえな! 帰るんだよ、悪ぃか!?」
「え、え、ちょ、ちょっと待ってよ秋月くん、あたしまだ支度がっ」
 あわててあたふたと帰り支度をする。
 寝てたせいでそんなの全くしていないわけで。
 乱暴にカバンへ荷物を突っ込み、わたわたとコートを羽織る。
「付いてくんな! 男は一匹狼なんだよ!」
 そんな言葉を残し、ずかずかと秋月くんは教室を出て行ってしまう。
「ほれほれ、早く行かないと。飼い主さんがいっちゃうよ」
「ま、まだ飼われてないもん!」
 ひらひらと手を振る冴子に半ば追い出されるように、急いでドアへと向かう。
 きょろきょろと背の高い後ろ姿を探しながら、廊下の人波にもまれるように転がり出た。
 教室の中に残るのは冴子と数名の生徒のみ。
「……まだってことはこれから飼われる気なのかね」


 そんな冴子の呟きは、私の耳には当然届くはずもなく。







「付いてくんなっつってんだろうが。毎回毎回」
「えー、だって帰る方向同じなんだもん」
「女なんか連れてたら軽い奴だと思われちまうんだよ。しかもこんなちんちくりん」
「ち、ちっちゃくないよっ!」
 秋月くんは背が高いからすごく見つけやすい。
 人混みの中でも目印になるぐらいだ。
 それに対してあたしはほんのちょっとだけ人より背が低めなので、並ぶと随分身長差がある。……頭二つ分ぐらい。
 ちびっていうな。
「ったく、なんでこんなのに取り憑かれる羽目になったんだか……はぁ、不幸だ」
 口ではこんなこと言ってるけど、秋月くんはやっぱり優しい。
 さっきも言ったようにこんなに身長差があるんだから、あたしと秋月くんじゃずいぶん歩幅が違うんだ。
 だけどあたしは別に小走りになったりすることもなく、普通に秋月くんの隣を歩けてる。
 ――こんな何気ない発見が、すごい嬉しかったりするわけで。
「えへへ」
「……何笑ってんだお前、気持ち悪いぞ」
 そう言われても、止められない。
 こんなに嬉しいんだから、笑っちゃうんだ。
 ただ隣を歩いてるだけで、なんだか幸せで。
 幸せなんだから、仕方ないんだ。
「ホント、変な奴……ん?」
 秋月くんの、視線の先。
 校門の影に、なんだか見知らぬ制服姿が見える。
 あれ中学校の制服だっけ?
 なんかこっちに手を振っているように見える。
「留美? なにしてんだお前、こんなとこで」
「ヨウ兄お疲れー。ちょっと人待ちしてるんだけど……ってあれ、美珠さん?」
 栗色のツインテールがくるくると回る。
 あ、この娘……
「留美ちゃん? だっけ」
「そーです! 先日はお世話になりました。一言お礼が言いたくて」
「そんなたいした事してないよ。応急の処置だし」
「……何お前ら、知り合いなのか」
 三日前、うちの動物病院に飛び込みが来た。
 素人目にも衰弱しきったちっちゃなしっぽの長い猫。
 泣きながらその子を抱いて連れてきたのが、この留美ちゃんだったのだ。
 幸いなことに何とか快方に向かっているので、あと数日で退院できると思う。
「……で、なんでヨウ兄と美珠さんが一緒にいるの?」
「ただのクラスメイトだよ。こいつが勝手にひっついてきやがんだ」
 秋月くんがそう説明する。
 ただの、ってのがちょっと気になったけど、まあ仕方ないか。
 留美ちゃんはきょときょとと私たちの顔を見比べるように視線を行ったり来たりさせた。
「はっ! ま、まままさか二人はそういう関係!? ええとええと、と言うことは私のお姉さんなわけで! ふ、ふつつか者ですがよろしくお願いします!」
「人の話を聞け。今発想がぶっ飛んだぞ。しかも色々間違ってるし」
 置いてかれてる間になんだかすごい勢いで話が展開してる。
 何が何だか分からなくておたおたしてるあたしに、みかねたのか秋月くんが妹なんだよ、と注釈してくれた。
「あー、秋月くんと留美ちゃん兄妹だったんだ。それでかぁ」
「何納得してんだお前」
「だって似たもの兄妹だなぁ、と思って」
 うちに飛び込んできた時の留美ちゃんを思い出す。
 半泣きになって、こっちが心配になるくらい必死な姿。
 飼ってるわけでもないのに、見かけただけで気づいたら抱いて駆けだしたという。
「ヨウ兄も硬派だとか言って隅におけないね。美珠さんみたいに可愛い人捕まえるなんて」
 ぶほ、と盛大に吹き出す秋月くん。
「待てお前、その勘違いはやめろ。心臓に悪いから」
「えー、付き合ってるんじゃないの? すごい仲良さそうなのに」
 つ、つつつ付き!? い、いやでもまだそんなの考えたこともないって言うか、告白もまだだしっていうか。
 そりゃ秋月くん優しいし、背高いし、かっこいいし、素敵だなとか思うけど思うけど。
 あたしとじゃ釣り合わないっていうか、勿体ないって言うか。
 おたおたするあたしと憮然とした表情の秋月くんの間を、留美ちゃんの視線が行ったり来たりする。
 うう、なんだか顔から火が出そう。
「お似合いじゃん。あたしも美珠さんみたいなお姉ちゃんなら欲しいなー」
「二人もいてまだ姉が欲しいのかお前は。大体俺たちは――」
 そういいかけて。
 それまで楽しそうだった秋月くんの顔に、影が差した……気がする。
 ……俺たち、は?
「いやなんでもねえ。つーかお前、質問に答えろ。こんなとこで何してんだ」
「だから美珠さんを待ってたんだよ。あの子の様子どうかな、って聞きに」
「うん、だいぶ衰弱がひどかったけど、なんとかものを食べられるトコまでは回復してきたよ。でも人にあわせると暴れちゃうだろうから、あと二、三日は会うの待ってもらえるかな」
 そっか、残念、としょぼくれる留美ちゃん。
 会わせて上げたいのはやまやまなんだけど、獣医の娘としてこれはちょっと譲れない。
 なにより大事なのは患者さんの身体だしね。
「ちぇー、じゃヨウ兄、買い物付き合ってよ。CD買いに行くんだ」
 げー、と露骨に秋月くんが嫌そうな顔をする。
 拒否の言葉が出てこない所を見ると、嫌々でも何でも結局付き合うんだろう。
 なんだかんだ言って仲良さそうな兄妹だなぁ。
「そういえば、なんでヨウ兄って呼ばれてるの? 秋月くん」
「要だからだよ。カナメ。家で普通に呼ぶと、香奈美とまざってわかんなくなるから、昔っからそう呼ぶんだ」
「ああ、そういえば隣のクラスのお姉さん、そんな名前だったね。双子なんだっけ?」
「まーな。何の因果かしらねえが」
 クラスが違うせいであたしも何度かみかけただけだけど、すごい綺麗な人だった覚えがある。
 秋月くんと双子なだけあって、背が高い人だったなぁ。
「一番上にもう一人、美桜ってお姉ちゃんがいるんだけどね。あ、そうだ! 美珠さんも一緒に行きません? Luck'sの新曲出たんですけど」
「え、あれ今日発売だっけ? うわわ、お金下ろさないと」
「わ、美珠さんもファンなんだ? 嬉しいな、じゃ決定ですね!」
「待て待て待て! 俺は了承してねえぞ!? 女二人も連れて歩けるか!」
「ぶっぶー。ヨウ兄に拒否権はありませーん。強制連行でーす」
「あはは、秋月くんの負けー。ほら、いこいこ!」
 そう言って、秋月くんの左手を引く。見れば留美ちゃんも右手を取っていた。
 ずるずると私たちに引きずられながら、秋月くんは人さらいだとか誘拐魔だとか口走ってる。
 別にそんな強く握ってるわけじゃないんだから、振りほどこうとすれば簡単に振りほどけると思うんだけど。
 そんな優しさに甘えるように、ぎゅっと、秋月くんの腕に抱きついてみた。


 
 楽しいときは、あっという間に過ぎてしまうもので。
 気がつけば日も落ち、街には灯が点る。
 CD屋を見回って、ファーストフードでお喋りして。
 お夕飯の買い物に付き合ったら、もうそんな時間。
「じゃヨウ兄、あたし晩ご飯の支度してるから、なるべく早く帰ってくるんだよ」
 ていうか、留美ちゃんほとんどの家事をしてるらしい。
 料理なんて全然できない私はすごいなー、と感心するばかりなのだ。
「つーか本当に大丈夫か。それなりに重いだろ、それ」
 家族四人分の夕食ともなれば、結構な量の材料になる。
 両手一杯の荷物は果たしてどれだけ重いのやら。
「へーきへーき。それより美珠さんをちゃんと送り届けてきてよ。それくらいはヨウ兄でもできるでしょ」
 あたしも一人で帰れるから大丈夫だよ、って言ったんだけど、なんだか知らないうちにまとめられてしまった。
 秋月くんも留美ちゃんには強く出れないみたい。
「じゃ美珠さん、今日はありがとうございました。ヨウ兄、襲っちゃだめだよー」
「誰が襲うかこんなの」
 うわ、今さりげにひどいこと言われた。こんなのて。こんなのて。
 愕然とショックを受けてる私に、ぺこりと頭を下げて、失礼します、と言い残し、留美ちゃんは雑踏に消えていった。
「ほれ、行くぞ」
「え、あ、うん」
 仕方ない、と言った表情の秋月くんの隣を歩く。
 鞄の中には無事手に入れたCDと、いくばくかのファンシーグッズ。
 あちこち連れ回された秋月くんは終始嫌そうな顔をしてた。
「留美ちゃんいい子だねー。ホントに妹になってくれたら嬉しいのにな」
「断る。留美がいなくなったらうちは一家で飢え死にしちまう」
 あはは、と笑いがこぼれる。
 なんだかんだいって、留美ちゃんはすごい大事にされてるみたい。
 ちょっと、羨ましいな、と思った。
「そういや留美がネコ持ち込んだって、診察費どうしたんだあいつ――もしかして」
「うん、秋月くんの時と同じー。これだからうち儲かんないんだよね」
 留美ちゃんが連れてきた、衰弱しきった猫。
 お父さんは事情を聞くより先に処置室へ搬送して、ほとんど……っていうか何も聞かずに治療を始めちゃったんだ。
 その間興奮状態にあった留美ちゃんの話をぽつぽつとあたしが聞いてた。
 当然お金の話とかも出たんだけど、そんなのあとでいいよって打ち切っちゃった。
「……そっか、悪ぃな。そのうち必ず払うからよ」
 ううん、と首を振る。
 似たような状況でうちへ来る人は結構いる。
 お父さんは、そういう子達を助けてあげたくて獣医になったそうだ。
 お金なんかよりずっと大事なもの。
 そういうものがあるって事を憶えておきなさい、と小さい頃から言われてる。
 そんなお父さんがあたしは何より誇りで。
 お父さんみたいな獣医になりたいな、とあたしも心から思う。
「秋月くんもすごい動転してたよね。あたし子犬より秋月くんの方が心配だったもん」
 ぶほ、と秋月くんが吹き出した。
 げほげほとさらに数回咳き込んで。
「わ、わわ忘れろ! ありゃ人生の汚点だ! 気の迷いだ!」
 三ヶ月ほど前。
 雨の降ってた夜に、大けがをした子犬を抱えて、秋月くんがうちに飛び込んできたんだ。
 ずぶ濡れの、今にも泣きそうな顔で、お願いします、助けてやってくださいって叫び続けて。
 そういう人の話し相手は私の役なんだけど、翌日学校でその話を持ち出すと、お前だったのかとか驚かれた。
 動転しててあたしだと終始気づかなかったらしい。
「事故現場からもっと近いところもあったのに、なんでうちに来たの?」
「おまえんとこ、インパクトがすごいんだよ。『わんにゃんびょういん』とか無駄に看板でかいし。素直に野守動物病院とか書けってんだ」
 それは一理ある。
 あたしも電話の応対するときとかちょっと恥ずかしいかなと思ったりするし。
 ともかくもそれから、なんとなくで秋月くんとはお話しするようになった。
「ああいう人良くくるけど、秋月くんほど必死な人って早々いなかったよ。忘れろって言われても無理無理」
「……しょうがねえだろ。目の前で犬が轢かれて、それをほっとくとか、人間ができるこっちゃねえよ」
「放っておく人だって、いっぱいいるんだよ。血まみれの動物を、まるでゴミみたいに見る人だっている」
 しばし、無言で。
 秋月くんはそっぽを向いて、少し歩きを早めた。
 あたしは微笑みながら、やや後ろを歩いて。
「秋月くん、やっぱり変わったよね。中学の頃は、もっと怖い人だと思ってた」
「あー? 別に変わっちゃねーよ。別人じゃあるまいし、そんなぽんぽん変わるもんか」
 そうかも、しれない。
 変わった訳じゃなく、あたしがそんな秋月くんを知らなかっただけなのかもしれない。
 でも、知ってしまったから。
 あの姿を。あの声を。
「あたし、忘れないよ」
 秋月くんは、背中を向けたまま、前を歩き続ける。
 その大きな背中を、まぶしく思いながら。
「わすれない」
 そよいでいた風が、止んだ。
 秋月くんは歩みを止め、うつむいて。
 あたしはそんな秋月くんの背中を見上げながら。
 とくん、とくんと響く心臓の音に励まされるように、唇を開いた。

「あたしね、あたし、ホントに秋月くんのことが――」

 その瞬間。
 びゅお、と空気を切り裂いて、目の前を何か大きなものが横切った。
 あまりに一瞬で何も見えなかったけど、サッカーボールほどの大きさの影は奇妙な弧を描き、すーっと、路地へ吸いこまれるように消えた。
「野守!? 大丈夫か!?」
 何かの物体はすごい風圧で、あたしの体を地面に倒した。
 どすん、と尻餅を不格好についたあたしに、心配そうな秋月くんの悲鳴が届く。
 ――え? 今、一体何が?
 ともかくも差し出された手をつかんで、よいしょと立ち上がる。
「な、何? 今の、なんなの?」
 多分何かが入っていった路地の方をみる。
 そっちのほうでは野良犬がぎゃんぎゃんと騒いでるのが聞こえた。
「いや、わかんねえ。鳥のわけねえし、何か――」
 秋月くんの言葉は、そこで打ち切られた。
 ギャンっと響いた、ひときわ大きな犬の悲鳴によって。
 その声の後、路地は再び静寂に包まれる。
 自分がつばを飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
 じりじりと靴底を擦るように、緊張に包まれた雰囲気の中、秋月くんが路地へと近づいていく。
 その背中に隠れるように、息を殺してそうっと路地をのぞき込んだ。
 入ってすぐの、電柱の下に置いてあるゴミ箱。
 その陰に、犬の足が見えた。
 不格好に、中空へと投げ出された形で、ゆらゆらと不規則に揺れている。
 耳を澄ませば、ぶちゅぶちゅと気持ち悪い音が路地に響く。
 それは間違いなく、犬の体のあたりから聞こえていた。
 すっと、目の前に腕が差し出される。
 ここで待っていろ、という事だろう。秋月くんは学生鞄を構え、すり足でゆっくりと電柱へ近寄っていった。
 がらん、と一つ音を立てて、いきなりゴミ箱が転がった。
 果たしてその向こうにいたのは――蠅、だった。
 複眼をぎょろりと蠢かし、熱心に顎から伸びた太いストローのような口を犬の体に突き刺している。
 何をしているかなど考えるまでもなく、食べているのだろう。死んだばかりの犬の体を。
 そこまでが鮮明に解るほど――その蠅は、巨大だった。
 そう、まるでサッカーボールほども体長があって――
「――ひ」
 思わず、喉が動いた。
 叫びにもならず、ただ漏れた、か細い声。
 小さく呻いたその音に、蠅の頭がこちらを向いた。
 お皿ほどもある二つの複眼を光らせて。
「走れ、野守!」
 秋月くんの声と同時、うわんと大気を震わせて、蠅が羽ばたいた。
 三対の肢がもぞりと犬の体を蹴り、空中へと浮かぶ。
 表情のないハズの蠅の顔が、にたりと笑った気がした。
「――にゃろ!」
 ぶぉんと音をさせ、秋月くんが鞄を振り回した。
 けれど蠅は巨大な体にもかかわらず、ものすごい早さで空中を不規則に動き、その一撃をかわす。
 路地の壁に張り付き、きょろきょろと動かした頭の顎のあたりは、犬の血でべっとりと濡れていた。
 頭の奥の方で、危険信号が鳴り響いている。
 何か解らないけど、一刻も早く逃げなければ。それは解ってはいるのだけれど。
 がたがたと震える足はその場に縫い止められたように、まるで動いてくれなかった。
「野守! 逃げろ!」
 蠅の姿が、いきなり大きくなった。
 ――いや、ふくらんだわけではない。単純に――こちらへ向かってきたのだ。ぎちぎちと、顎を鳴らしながら。
 ものの0.5秒も無い時間が、途方もなく長く感じた。
 血に濡れた口の先がぐるんと動き、一直線に私の胸に向くのを見て、心臓が止まった。
 電柱の陰に転がっている、無残な犬の死体。それはまるで、一瞬後のあたしの姿を連想させて、胸の奥から吐き気がこみ上げる。
 けれど身体を動かす時間などはまるでなくて、蠅はまっすぐにあたしを目掛け――
 急に、視界から姿を消した。
 一瞬遅れて、どすんと音がする。それなりの体重を持つ、蠅が地面に転がった音だ。
 秋月くんが投げた鞄が、うまく蠅に当たったらしい。
 背中から地面に落ちた蠅は、羽根をブブブブと鳴らし、肢を不気味に動かしてもがいている。
「野守! 野守! ――くっそ!」
 がっと力強く、秋月くんの腕が回された。
 脇と両足を抱え、あたしを軽々と持ち上げると、地面を蹴って走り出す。
 未だ耳に届く、ブブブブという羽ばたく音から逃げるように。
 ただ必死に、走り続ける。
 そのうちに、路地はすっかり遠ざかっていた。

 電柱の上に佇む小さな影には結局、気づかないまま。











 見慣れた『わんにゃんびょういん』の看板。
 家にたどり着くまで、さほど時間はかからなかった。
 肩で息をしながら、秋月くんはまだ私を抱えたままで、家のドアにもたれかかる。
 身体の震えは全然治まっていない。
「あ……あきづき、くん……」
 おそるおそる出した声は、なんとか喉から出た。
 それ以上喋ることはできなかったけど、秋月くんは声を聞いて、その場にずるずるとへたり込んだ。
 あの羽音はもう聞こえず、はぁはぁと息切れを起こした私たちの息づかいだけが響いていた。
「……な……なんだ、ありゃあ……」
 ようやくに聞いた秋月くんの声は、いつもと全く違う、弱々しい声だった。
 それを聞いてもあたしは答えることができず、ただ力なく首を横に振った。
 息を大きく吸い、吐くと、リズム良く刻む自分の鼓動が聞こえてくる。
 視線を胸へとおろすと――そこでどきりとした。
「あ、あの――秋月くん」
「……なんだ。大丈夫か、野守?」
「う、うん、あの、あのね、その――手、が……」
 それだけ言うと、秋月くんはゆっくりと視線を下げていく。
 ある程度まで下がると、ぴしっと凍り付いて――慌ててあたしを下ろした。
「う、うわわっ!? わ、わざとじゃねえんだ、いやその、悪ぃ、野守!」
 そうなのだ。あたしを抱きかかえ、脇から回された秋月くんの手は――あたしの胸に添えられていたのだ。
 そんなこと気にしている場合じゃなかったし、あたしも――秋月くんなら別にかまわない、けど。
 口にしたことをちょっと後悔しながら、おそるおそるに立ちあがる。
 ドアノブを杖代わりに、生まれたての子鹿のようにして。
「……とりあえず家に入ってろ。先生も命さんもいるんだろ。戸締まりして、今日は絶対に家から出るな。いいな」
 こくん、と小さく頷く。
 ――そういえば、お姉ちゃん達は無事だろうか。
 そんなことを考える余裕まで出てきた所で、小さな事実に気づく。
「あ……カバン、置いて来ちゃった」
 荷物に構ってるヒマなんか無かったから、あの路地に放り出したままだ。
 勿論、あそこに戻る勇気なんか全く出ないんだけど。
「だめだ。明るくなって、人通りが出てきてからいけ。遅刻したってしょうがねえだろ。最悪交番にでも届いてるさ」
 もっともだ。
 ふたたびこくんと頷いて、呼び鈴を押す。
 家の鍵は鞄に入っていた為、開けられないのだ。
 中からぱたぱたとスリッパの音が響いて、ほどなくがちゃ、とドアが開く。
「ほいほーい……って美珠か。どした」
「あ、ただいま、お姉ちゃん……いや、ちょっと、ね」
 ドアの向こうからは、くわえタバコにエプロンをしたままのお姉ちゃんが出てきた。
 顔をみるとなんだかほっとして、足の力が急に抜けていく。
 詳しく話す気はあまりしない。
 思い出すだけでも怖気が走るのだから。
 どうやって取り繕うか、それを考える方が優先だった。
 目を丸くするお姉ちゃんに、後ろから秋月くんがぺこり、と会釈した。
「お、久しぶりじゃん、少年。元気か、主に性的に」
「お久しぶりっス、命さん。すいませんけどそいつ、宜しくお願いします。それと今夜は絶対に外に出ないで下さい」
 ぴこぴこと口にくわえたタバコが上下に動く。
 視線はあたしと秋月くんをいったりきたりして。
 お姉ちゃんはふうん、と呟いた後、短く分かった、とだけ返事をした。
「まぁ立ち話もなんだから、上がってけ少年。今なら姉妹でくんずほぐれつご奉仕してやるぞ」
「すげえ魅力的なお誘いですけど、今日は遠慮させて下さい。家族の方も見てこなくちゃならないんで」
 そうだ。一人で先に帰った留美ちゃんは大丈夫だろうか。
 無事に帰ってるといいんだけど。
「……でも、秋月くん、大丈夫?」
「俺のことは心配いらねえよ。一人でならなんとかなるし、逃げることだってできる。お前は自分のことだけ考えてろ」
 そういって、秋月くんはぽんぽんとあたしの頭をはたいた。
 強く言われると何も言えないし、あたしでは何の力にもなれない。
 あたしにできることはせいぜい、手を振ってかけ出す、秋月くんの姿をじっと見送ることぐらいだった。

 一歩一歩、ゆっくりと階段を上る。
 地面が揺れているような気がするのは、多分気のせいではないんだろう。
 左手首をぎゅっと握ると、未だに細かく震えているのが分かる。
 もう大丈夫、もう大丈夫と自分に言い聞かせて、二階への階段を上りきる。
 ふう、と一度深呼吸をして、部屋のドアノブに手をかけた。
「わっぷ!?」
 びゅう、と吹いた風に、ドアが強い音を立てて全開になる。
 中をのぞくと、窓が開いていて、ばたばたとカーテンがはためいていた。
 ……おかしいな、窓を開けて出て行った覚えはないんだけど。
 ともかくも、うんしょと声をかけ、ドアを閉める。
 開いた窓からは月明かりがさして、暗いながらも部屋の中を照らしてくれていた。
 灯りをつけようと電灯に近寄ったあたしの足に、こつんと、何かがぶつかった。
「……え、なんで?」
 それは、あの路地に置いてきたはずの鞄。
 サイドには見慣れたキーホルダーが付いていて、間違いなく自分のものだと分かる。
 しばしその場で呆然としていると、ゆら、とカーテンが動いた。
 ――否、それはカーテンではなく。
 窓枠に佇む、一匹の猫の影だった。
 留美ちゃんが連れてきた、あの小さな猫の姿。
 月明かりを背に、ゆらゆらと長い二本の尾が揺れている。
 けれど猫の姿は一匹のみ。
 つまり、その猫は二本の尾を生やしていて――
「こんばんわ。ええと、ハジメマシテ、でいいのかな」


 ――そんな挨拶を、あたしにしてきたのだった。







           To Be Continued...

 







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