そよぐ風が頬を撫でる。
 時折金属のたてるぴし、ぴしという音が耳に障り、眉根をひそませる。
 人気のない鉄橋の上、すでに月は高く頭上にあり、喧噪も遠く、あたりは静まりかえっていた。
 ふう、と息を一つ吐いてもぐるぐると渦を巻く頭の中は晴れるわけもなく。
 すべてを諦めたような瞳が眼下の町並みを冷たく映していた。
 変わらぬ風景に、変わっていく自分が置いて行かれたような、そんな郷愁。
 夜風に紛れ、ぽつりと言葉が桜色の唇から漏れた。

「どうして、こんな事になっちゃったのかな……」


 少女の名は、御坂美琴といった。

 


学園都市七不思議 その1「意地と勝負と恋心・上」

       かいたひと:ことり

 

「――はぁ……不幸だ」
 もはや生涯で何万回呟いたであろうか、すっかり身についた口癖を、ツンツン頭の少年が吐く。
 いかに不幸かと問われると筆舌に尽くしがたい。
 まずここが人通りの少ない場所であること。
 次にある程度開けた場所であること。
 3つめに、目の前に学園都市でも7人しかいないレベル5の一人、御坂美琴がいること――
 指折り数えればキリが無い。
 つまりはそういった不運を積み重ねた上に、今現在の少年――上条当麻がなりたっているわけだ。
 そもそもこのうだるような暑さが悪い。
 補習を受け帰り道、脱水症状を起こす前に水分を補給しようと自販機の前に立った。
 大して厚みもない財布を開くと、中の小銭は120円ちょうどあって、投入口へいそいそと運ぶ。
 あ、と思った時には指先から10円玉がつる、と滑り落ちていた。
 なおかつ落ちた先は排水溝で、その時点で顔面が蛙のように引きつった。
 たかが10円、たかが10円と自分に言い聞かせ、震える手で千円札を自販機に差し入れる。
 呑まれるようなことはなくデジタルは1000と表示を返す。
 ほら、気にすることなんか無いんだと、がたんと音を立てて落ちてきたジュースを手に取った。
 じーがちゃん、じーがちゃんとお釣りをはき出す音が続く。
 かなりの間音は続き、いやな予感に眉根をゆがませていると、釣り銭口には予想通りに100円玉が8枚に10円玉が8枚と、すべてバラ銭で出てきた。
 どうせ軽い財布だったんだし別にいいではないか、と自分を慰めている最中に、一枚100円玉の代わりにメダルが混じっていることに気がついた。
 総額780円。理不尽にジュースを握りしめようとしても、熱くて持つのが精一杯ではそれもままならない。
 買ったのは椰子の実サイダーだったのだが――

 

 そんなこんなで八百万の神々を個別訪問でもして世の不条理を説こうかという気分を何とか晴らそうと、多少の回り道までして土手沿いの道を歩いていた所、ビリビリ中学生――御坂美琴に出会ってしまったというわけだ。
「……勝負勝負って、今までオマエの全戦全敗じゃんか」
 ついこの間、ささいな一件があって以来、上条は学園最高峰のエレクトロマスター・御坂美琴に付け狙われるようになった。
 気軽に放たれる10億ボルトの高圧電流を、上条はことごとく右手に宿る力――幻想殺しで打ち払ってきたのだが、目の前のレベル5はそれがどうにもお気に召さないらしい。
 かくいう今日も例に漏れず、上条の姿を発見した途端花の咲き乱れるような素敵な笑顔で人を指さし、勝負しなさい、と声高らかに宣言したわけであった。
「うっさいわね、今までのはまぐれに決まってるじゃない! 今日こそは完膚無きまでにメタクソのけちょんけちょんにノしてやるんだから!」
 鼻息を荒くして口早にまくし立てる中学生を前に、死んだ魚のような目で上条が愚痴る。
「だからお前の勝ちでいいって言ってんだろ……そもそもお前はレベル5で常盤台のお嬢様。それに対して俺はレベル0の貧乏学生。勝負も何もはじめっから決まってるようなもんじゃねーか」
 いってて心底悲しくなる。
 おぎゃあとないた瞬間に決まってる優劣というのはどうにも理不尽を感じる。
 しかしこれが紛れもない現実で、ここ学園都市において上条は劣等人種の烙印を押されてしまうのだ。
 そんな下層階級にかまうこともないだろ、と上条は諭すのだが。
 超電磁砲の二つ名が許さないのか、美琴は何度となく電撃を放ち、そのすべてを軽くあしらわれていた。
「だいたい俺が勝ったってなんの得にもならねーんだから、もうお前の勝ちでいーじゃんか。何なら今から駅の黒板に『上条当麻は御坂美琴に完敗しました』とでも書いてきてやるよ」
 その言葉に、ぴくんと美琴の眉が動いた。
 明らかに表情が不機嫌に変わっていくのが見てとれて、上条はますますに気分を沈ませる。
 間違いなくぷちぷちと血管を2、3本断ち切らせて、それこそ鬼のような形相で美琴が吼えた。
「わーかったわよ! じゃあアンタが勝ったら何でも言うこと聞いてやろうじゃない! それで文句ないでしょ!?」
 特大のカミナリが来ると思って身構えていた上条は、美琴の言葉の意味を計りかねた。
 何を言ってるんだこいつはと極太マジックで書いてありそうな表情で恐る恐る顔を上げる。
 ぜえぜえと肩を上下させて息を吐く美琴に、上条は叱られた子犬そのものの様相で声をかけた。
「いや……あの……ミサカさん? 何でもって……」

 逆にかけられた弱々しいささやきに美琴の肩がぎくんと固まる。
 熱くなった頭からさーっと血の気が引いていくのがわかった。
 自分がいかに突拍子もなく大変なことを口走ったのかは理解している。いや、したつもりだった。 
 けれど一度振り下ろした刃は止められない。
 御坂美琴は学園都市のナンバー3、超電磁砲なのだから。
「……な、なんでもったらなんでもよ! さぁいい加減おとなしく、裁きを受けなさいっ!」
 叫ぶやいなや風に揺れる前髪が青い稲光を放つ。
 認識できる一瞬をすら超えてみるみるうちに密度を増し、火花だったものは荒れ狂う雷竜の吐息と化した。
 二人を直線上で結ぶ草花を食いつぶし、必殺の勢いを持って竜は上条へと襲いかかる。
「お、おわわ、ちょ、ちょっとまてぇっ!」
 

 はじまりはいつも、嵐のように突然で。

 

 

 

 そこかしこに人為的なクレーターが見える。
 ついさきほどまで猛威をふるっていた磁場嵐はようやくに落ち着きを見せ、吹き渡る風が焦げた臭いをさらっていってくれた。
 その場には疲れ果ててうずくまる美琴と、尻餅をついたような姿で脱力した上条。
「――しょ、勝負あった、みたい、だな?」
 上条の弱々しい声。けれどそれに対する美琴は喋ることすら困難で、荒く息を吐くばかり。
 そもそも砂鉄の鞭を崩された時点で勝敗は決したようなものだったのだ。
 なのにその後も見苦しく電撃を放ち続けたため、今の美琴は火花一つも出せない文字通りの電池切れ状態だった。
 悔しくないはずがない。
 動かない四肢の代わりにぐりぐりと奥歯をかみしめる。
 生まれて初めて、全力を出し切った上での敗北。
 勝ち負けなんてどうでもいいと思っていた。
 けれどそれは常に勝者の側に立っているもののおごりでしかなかったのだ。
 負けることがこんなにも悔しい。
 常盤台の超電磁砲は完膚無きまでの敗北というものを今初めて知ったのだった。
「――そういや」
 唐突に上条の声がぜいぜいと整わぬ呼吸と共にはき出される。
「負けたら何でも言うことを聞く、とか言ってたっけ、お前」
 びくん、と美琴の肩が小さくはねる。
 その場の勢い。売り言葉に買い言葉。
 頭の中ではいくらでも言い訳が浮かんでくる。
 けれどそれを口に出すのはどうにもプライドが許さない。
 負けたのは間違いなく事実。
 ならば彼女の発する言葉は一つしかない。
「――言ったわよ。何がお望み?」

 

「二度と勝負なんて言――」
「嫌」
 上条の言葉を短い言葉で美琴が遮る。
 身も蓋もない答えにたっぷりと1分間沈黙が訪れる。
「なんだそれ!? オマエなんでも聞くっていったじゃん! 聞くだけ聞くって意味か!? 騙された俺が馬鹿なのか!?」
 残された余力のありったけを使って上条が魂で叫ぶ。
 そんな血涙すら流しそうな上条を幾分冷めた目で美琴は眺めて。
「なんでもったってできないことはできないわよ。アタシはどうしてもアンタに勝たなきゃいけないんだから、それだけは聞けないの。……あと『この先ずっと』ってのもナシ。今日一日のうちで、あたしにできることならなんでもひとつ聞いてやるわよ」
 なんじゃそりゃ、と上条はうんざりした。
 いかにもお嬢様らしい強引な後付け条件である。
 この調子でいくと、あらゆる事に難癖つけてすべてうやむやにするのではないかと思える。
 美琴にできるとこでひとつ、しかも今日のうち。
「ったってなぁ……」
 メシでもおごってもらおうか、と考えたがすでに時刻は夜。
 交通手段はあらかた止まっている上に、ここから繁華街では結構な距離がある。
 食材の買い置きもまだあるし、何より来た道を戻るのもめんどうくさい。
 二人が顔を合わせるのは基本的に下校時刻を過ぎたあたりなので、今日一日のうち、といわれると意外にできることは少ない。日曜日とかであれば別だろうが。
「なによ、うんうんうなってるばっかで。なんかないの?」
 多少イラついた声の美琴。
 上条は考える。
 めんどくさいから帰れと言おうかとも思ったが、それでは美琴は何度でも何度でも勝負を挑んで来るであろう。
 ペナルティ要素が無くては意味がないのだ。
 その点で言うと先ほどのメシをおごってもらうと言うことも、常盤台のお嬢様にはさして痛くもなさそうだ。
 もしもまた負けたら、と恐怖させなければいけない。
 そこまで考えて、上条の口から出た言葉は――

「パンツ見せてくれ」

 瞬間、周囲の時間が凍り付いた。
 真剣そのものの上条。
 対して何を言われたのかまだよくわかっていない美琴。
 こんな要求は呑まないだろうと上条は考える。
 この後轟雷に焼かれようがいいのだ。
 どれだけ辛くても今日を耐えてしまえばいいのだから。
 このまま美琴が怒って帰ってしまえば、上条は次回の挑戦を受ける理由はなくなる。
 勝った所で上条には何の利益もないのだから。
 罵声か怒号か、はたまた鉄拳か。
 何が来るかと内心びくびくする上条に、しかし帰ってきたのは静かな言葉で。
「――い、いわよ」
 上条は耳に入ってきた情報を処理できずに、しばし固まった。
 その弱々しく、か細く、震えた声。
 俯いた顔から表情は読み取れないけども。
 その言葉がどういう事を示すのかとも理解しているのか。
 情けない声で美琴に呼びかける上条の右手は空をさまよう。
 そんなことはあり得ないと、この幻想を壊してしまおうかと。
 何を言われたのかよくわかっていない上条が、怪訝な顔でしばし固まっていると――
「い……いいっていってんのよ! パンツぐらい見せてあげるわよ!」
 声を張り上げて美琴が叫ぶ。人気のない土手なのが幸いか。
 風が吹くたびに前髪が揺れ、ちらちらと覗き見える美琴の頬は遠目にも茹で上がってるように真っ赤になっていて。
「あ……あー、お前短パン履いてたもんな、それ見せて終わりってんだろ?」
 混乱した上条が答えを見つけたように声を出す。
 そうですよね、そうなんですよねと、神様にも聞くような気持ちで。
 しかしそれを聞いた美琴は一瞬怒ったような表情を見せ、弱々しくではあるが勢いよく立ち上がった。
 硬直する上条を前に、耳まで赤くして、今にも泣き出しそうな顔で。
 繊細なガラス細工を扱うような手つきで、ゆっくりゆっくりと美琴の手が腰のあたりへと伸びていく。
 震える指先をスカートの裾へとかけたところで、彼女は上条の食い入るような視線に気づいた。
「じ……じろじろ見るな! あっち向け!」
「ひ、ひゃい!?」
 今までのどんな攻撃よりも殺気を含んだ怒号に、上条は情けない声を出しながら慌てて後ろを向く。
 これから中身を見せようというのに、脱いでる姿はだめなのか、と理不尽を感じる上条だったが、乙女心は複雑なのだ。
 とはいえ後ろを向き、視覚を封じたため、変わって聴覚が鋭敏になる。
 ごそごそという衣擦れの音の後、短パンのジッパーを下ろす音が聞こえてくる。
 想像の美琴が短パンを手にかけ、左足から抜いていく姿が浮かんできた。
 これってなまじ見てるよりやばいんじゃないか、とふと思ったが、見ていれば見ていたでまた別の意味でやばいのだろう。
 ぱさ、と布が地面に落ちる音がした。
「……い、いいわよ」
 あたりが静かでなければ聞き逃しそうなか細い声。
 ごくり、とひとつ喉を鳴らして、ゆっくりと振り返る。
 元々断られる前提で言ったことなのに、一体どうしてこんな事になっているのだろう。
 実は振り返った瞬間に刃物で刺される展開でも待っているんじゃないかと勘ぐってしまう不幸体質の上条さんだったが、裏の裏の裏をかくように、そこには頬を染めて佇む美琴の姿があった。
「……」
 ごくり、と喉が鳴る。
 視線を合わせないようにそっぽを向く美琴は、落ち着かないのか、もじもじとスカートの裾を両手で押さえていた。
 ふと見れば足下には短パンが畳みもせず乱暴に投げられている。
 重ねてはいていたというようなオチでなければ、その下はもう下着だけのはずで。
 見てはいけない、見てはいけないと念仏のように唱えても、そこは健全な男子高校生の性か、泳ぎながらも目は自然とその部分へと引きつけられる。
 すう、はあと美琴が数回深呼吸をする。
 長い時間に感じられた。実際には2分と経っていないのだろうが。
 やがて覚悟が決まったのか、ぐっと顔を上げて美琴は上条をにらみつける。
「座れ」
「……はい?」
 一体どうしてそんな言葉が出てきたのかわからない上条は目をぱちくりと瞬いた。
 思考が止まったままさらに数秒が経過する。
「座れっつってんのよ! 2回言わないとわかんないのかこのド馬鹿ァ!」
「ひ、ひゃいぃ!?」
 文字どおり鬼のような形相で叫ぶ美琴に心底恐れおののき、考える早く体が正座をする。
 なぜ怒られているのかもわからないまま、むきだしの地面にきちんと座り、両手を膝の上へ正しく置く。
 今までの人生でこれほど真面目に正座したことはないと断言できるほどだった。
 そんなかしこまった上条に、美琴が一歩近づく。
 ぎゅっと握られた手がスカートの上で細かく震えていた。

 喜んでするようなことではない。
 嫌なら嫌と断ってくれればいい。
 なのになぜ目の前の中学生はこんなにも必死なのか。
 ここで断れば上条当麻を倒す機会が無くなるから?
 そこまでしてこのレベル0を倒すことに何の意味があるのか?
 上条当麻にはわからない。
 『勝負』にだけ気を取られている上条当麻には、決してわからない。

 意を決した美琴の指が、そろそろと布地を持ち上げる。
 ゆっくり、ゆっくりと、薄氷を踏むが如く慎重に。
 上条の目の高さに、美琴の腰がある。
 長い、長い時間をかけてたくし上げられたスカートからは、薄い一枚の布。
 どうということもない、そこらの婦人服売り場で売られているようなシンプルな素材。
 ただの布だというのに、それがここまでに魂を震わせるのはなぜだろう。
 すぐ下に、真っ白な太股。
 まだ肉付きの薄い、思春期に入る前の、純粋な少女の肌。
 きめ細かなそれは白磁の陶芸品を連想させて、おもわず見入る。

「こ、こんな事なら、もっと……」
 美琴の細い声も、何かに憑かれたような上条には届かない。
 まばたきすらも忘れた上条の手が、膝を離れて地面へ着く。
 それは上体が半歩ほど前へ乗り出すことを意味していて。
「……え? ちょ、ちょっと……!」
 素足に吐息を感じる。つまり、それほどに上条の顔が近づいている。
 遠く車の音さえ聞こえてくるはずなのに、その世界には二人しかいなくて。
 息づかいも鼓動も、体温すらも感じられる。
 まるで自然に上条が右手をすっと上げ、その指先がゆっくりと、美琴の太股に触れようとして――
「――っ!?」
 考えるまでもなく体が反射で動いた。
 ちょうどいい位置にあった上条の側頭部に、美琴の膝が綺麗に入って。
 夢中だった上条は認識するまもなく吹っ飛び、2、3回バウンドして、そのまま昏倒する。
「み、みみみ見るだけって言ったでしょーが! 触るのはまた今度!」
 真っ赤な顔に目を白黒させて美琴が叫ぶ。
 混乱してるのか、何を言ってるかもよく分かっていない様子で。
 ばふばふとスカートを叩き、傍らに置いてあった短パンを無造作に掴むと、上条に向かって指を突きつけた。
「お、覚えてなさいよ! 今日はたまたま負けたけど、今度はこうはいかないから!」
 そんな誰が聞いても悪役の捨て台詞にしか聞こえない言葉を、未だ倒れ伏したままの上条に向かって放つ。
 当の上条は側頭部を強打したため、意識不明の昏睡状態だったのだが。
 そんな痙攣する毛虫のような上条に向かって言うだけ言うと、美琴は踵を返して走り去った。
 零れ落ちる涙のように、時折電撃の火花をあたりにまき散らしつつ。

 

 後にはただ、ぼろ雑巾が一名残されるだけ。

 

 

 常盤台女子寮。その208号室のドアが、大きな音と共に勢いよく開かれた。
 ずんずんと、その少女の対格に似合わぬ音を立てて、部屋に二つあるベッドの片方へと真っ直ぐに向かう。
「お……お姉様?」
 もう片方のベッドへ腰掛けていたこの部屋の同居人が、少女のあまりの形相に、一心に髪を梳いていたその手を止めた。
 ぼふん、という派手な音を立てて少女はベッドへダイブする。
 大きな枕を両手で抱え、すぐそばにいる同居人に何も聞かれないようにと、深く深く顔を埋める。
 息よりも苦しいのは、その小さな胸の内。

 ――見られた。
 ……見せちゃった。
 あいつが間近に見てるって思って。
 あいつが私に触れそうになって。
 ……どうしよう。
 ……どうしよう。
 ……どうしよう……

 珍獣でも見るような目つきの同居人は、低く唸る少女をそのままにしておく事にした。
 心配と言えば心配だが、何よりも声をかけた後の自分の身が心配だ。
 虎の巣穴にわざわざ危険を冒してまで踏み込むことはないのである。

 ――願わくば明日の朝に、お姉様の機嫌が直っていますように。

 そう願って、胸元で信じてもいない十字を切る。
 結局、人は自分ではどうしようもない時、神に祈るぐらいしかできないのだ。
 それが実在するにしろ、しないにしろ。

「あんにゃろう……次は……かな、ら……ず……」

 小さな寝息と共に、確かな決意が漏れる。
 苦々しげに吐かれる台詞とは裏腹に、少女の口元には笑みが浮かんでいて。
 目を開けた先に、どんな明日が待っているのか。
 少女はまだ知らない。

 

 誰も、未だ知ることはない。

 

          to be next day...

 

 




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