がちゃ、とドアをあけて。
「ただいまー。元気だった? ごめんね、今ご飯にするから」
 どさ、と教科書の入ったカバンをちょっと乱暴に置いて。
 小学校の制服を着たまま台所に駆け込み、手ごろな大きさのタンブラーを取って水を汲む。
 こぼさないように両手を添えて、ゆっくりとベランダへ向かう。
「ごめんね、遅くなって。お腹すいたかな?」
 そう言って、静かにコップを傾ける。
 夕焼けに赤く染まる空を照らして、零れ落ちる水が煌いた。
「あたしもお腹ペコペコなんだ。コンビニでお弁当買ってきたから、一緒に食べてくれる?」
 立ち上がり、足の折れる小さなテーブルをいそいそと準備する。
 座布団をひとつ置いて、台所へ向かった。
 冷蔵庫からお弁当を取り出してレンジに放り込む。
 ジー、と回る様をどこか虚ろな目でみつめ、しばし立ち尽くす。
 チン、と甲高い音に目の輝きを取り戻し、少し慌ててお弁当を取り出した。
 少し変形したプラスチック容器の熱さに苦戦しながら、慎重にテーブルへ運ぶ。
 もわ、と上がる湯気の匂いを嗅いで、お腹が少し鳴った気がした。

「いただきまーす」
 食べながらも、その日にあったことなどを思い出し、あれやこれやと話し込む。
 相槌を打たれることも無く、会話は終始一方通行で。
 けれど女の子はそれで気を悪くするでもなく、楽しそうに話し続ける。
 初夏の遅い日暮れが、いつまでも穏やかな灯りを注いでいてくれて、部屋の中の冷たさを忘れさせてくれた。
 何かから逃げるように、少女の唇は言葉を紡ぐ事を止めず。
 一人きりの部屋に、明るい笑い声はいつまでも響いていた。


 ベランダにはただ一鉢、朝顔が斜陽を浴びて煌いていて。

 


 海鳴の詩 「花の願い」

     かいたひと:ことり
 


 どくん、どくん。

 また、この感じ――。
 腕の産毛がちりちりと焦げる。
 沸騰したかのように熱を持った血は全身を駆け巡り、抑えようもない衝動を訴えて。
 ざわざわと体の奥が騒ぐ。
 およそ意思とは関係ない、本能の領域。
 物心ついたときから私の中に住み着いている、原始の感情。
 魂を鷲掴みにされて、ぶるぶると震わされているような、極上の獲物を前にした肉食獣の興奮。
 
 どくん、どくん。

 血に動かされて、猛る気持ちを必死で押し込める。
 走り出したい思いを、羽織ったマントを翻すことでごまかして。
 目を細め、醜悪な建造物の立ち並ぶ汚れた町を睨む。
 
 物事は冷静に、そして確実に。
 一番最初に教えられたことだ。
「――行こうか、アルフ」
 振り向きもせず、背後の気配へと呼びかける。
 のそ、と気だるげに、大柄の女性が歩み出て、横に並んだ。
「ああ……もう動き出してるのかい、フェイト」
 目ではなく感覚で視る。
 意識を向ければ、魂のざわつくこの苛立ちにも似た感覚を彼女も味わっていることだろう。
「また、あの子達も来るのかねぇ?」
 あの子達、という言葉にまなじりをぴく、と上げて。
 軽く息を吐いて、いつのまにか入れていた体の力を一旦抜く。
 そうして返すのは諦めの色を乗せた、そっけない言葉。
「……多分」
 そうして交わす言葉はそこで途切れ。
 ばさ、というマントが風をはらむ音をひとつ残して、影が二つ、夏の夜空へと舞う。


 ジュエルシード、と呼ばれた秘法の欠片を求めて。

 

 

 ――はっ、はっ――
 走った。
 ただひたすらに、体の奥で何かの呼ぶ声に突き動かされるように。
 胸の中をぎゅうっと握られるような、痛いような、苦しいような、この感じ。
 引き寄せられるままに、ただひたすらに走って。
 ほどなく周囲の色が消え、音が消え――死んだ世界に辿り着く。
 ひゅ、と風を切る音が耳に届き、嫌な予感に顔を上げるより早く、全身のバネを使って咄嗟に左へと飛び退く。
 黒い何かが視界の端を通ったのを微かに覚えた瞬間――轟音と共に、歩道のコンクリートをまるで豆腐のように、あっけなくその何かが打ち砕き、再びはるか頭上へと消えていった。
 あと一瞬、気づくのが遅れていたら……そんな想像に背中を伝う寒気を身震いし、必死に振り払う。
 固くこぶしを握り締め、何かが戻っていった先を睨む。
 さして悩むこともなく、襲ってきたものの容貌が知れる。

 高層マンションに幾重にも絡み付いた巨大なツタ。
 一本一本は大人が一抱えするほどもあろうか。
 幾本も複雑な模様を描き重なり合うそれが頭上へと鞭を振り下ろしてきたのだと、容易に想像がついた。
「レイジングハート、お願い!」
 <standby ready,set up.>
 瞬間、辺りに光が走る。
 瞬きするほどのわずかな時間ののち、少女の姿は一振りの杖を手に、白一色のシルエットへと変わった。
 見上げた先、執拗にツタが蠢いているあたりへと杖を向け、意識を集中する。
 <Divine Shooter.>
 杖が一言発するとともに、力強く地を蹴る。
 少女の身体は重力からも解き放たれて、一陣の風のごとく、宙へと舞う。
 ほどなく向かう先に、翠色の光と共に、見知った姿が現れた。
「シュート!」
 今まさに光の中心にいた影を飲み込まんと不気味に蠢いていたツタを、桜色の光球が爆砕する。
 先端を失って幾分か短くなったツタは驚いたようにひとつうねり、しゅるしゅると低く風切り音を響かせながらマンションの上のほうへと戻っていった。
「ユーノくん! ごめん、遅れた!」
 影はまだ年いくばくもない少年だった。
 何条もの光でできた鎖を操り、数え切れないほどのツタを縛り付けて。
 少女はカバーするように背後につき、すぐさま追撃のための詠唱を始める。
「なのは! 気をつけて、ちょっとやそっとじゃすぐに再生しちゃうよ!」
 言われて少女はさっき砕いた箇所を振り返る。断面がもごもごと動き、徐々に長さを元に戻していった。
 あと数十秒もあれば回復してしまいそうだ。
「ど、どうすればいいの!?」
「核を探し出して、そこを攻撃するんだ!」
「う、うん!」
 マンションを覆いつくすほどに成長したツタを見据える。
 以前のように町全体に広がってはいかないようではあるが、常に動き続けている分だけ特定は厄介かもしれない。
 ――でも、見つける!
「リリカル、マジカル!」
 <Area Search.>
 叫び、杖を一振りすると、先端を追うように幾何学的な模様の魔法陣が描かれていく。
「探して、災厄の根源を!」
 魔法陣から光が迸る。それは醜悪な巨体を隅々まで走り、調べ上げ――

 どくん。

 鼓動が聞こえる。いや、それは鼓動とは呼べないのかもしれない。相手は植物なのだから。
 けれど感じるこの感触は、明らかにその部分こそがいのちの中心なのだと教えてきて。
 顔を上げ、その場所を見据える。見つけた、と叫ぼうとした時、視界が不意に黒く覆われ――
「なのは、危ない!」
 ――え?
 理解したときには、もう遅かった。
 黒々とした大木のようなツタは唸りを上げ、目の前の邪魔者を排除せんといっせいに襲い掛かってきて。
 やられる、と思わず目を閉じたとき、声が響いた。
「――アーク・セイバー!」
 驚きに目を開ければ、そびえる壁のようにうねっていた夥しい数のツタが端から切られ、無残に地上へと落ちていく様が見えた。
「……フェイトちゃん!?」
 はるか後方のビルの屋上。間違えるわけもない。それこそ何度も戦った相手だ。
 赤狼を連れた漆黒の魔道士。
 じっとこちらを見る瞳は血の色のように紅く、冷たささえ感じさせる。
 とん、と軽く飛び上がり、わずか上空の位置まで来ると、そこで杖を構え直した。
「助かったよ、ありがとっ」
「……別にキミを助けたわけじゃない」
 そう返す瞳はまるで無表情で。
 その言葉が嘘でないことを明白に語っていた。
「でも、おかげで助かったから。……だから、ありがと」
「……礼なんか必要ない」
 ちゃ、と杖を翻し、相対する白服の魔道士へと向ける。
 瞳には光もなく、闇を見据えるかのような冷たさが宿るだけ。
「別に、倒す順番がどうだっていいんだよ……キミが先でもね」
「なのは!?」
 その声に、赤狼がちら、と横目をやって。
「……フェイト、あっちの使い魔はあたしが相手する。ちゃんと石は回収しておくれよ」
「わかった。頼んだよ、アルフ」
 びゅ、と風を切る音をひとつ残して、狼が少年へと飛び掛る。
 慌ててツタを縛る鎖を手放し、ユーノは迎撃耐性へと入った。

 始まりはいつも、そんな風に突然で。

 

 

 

 ぶおん、ぶおんと頭上から雨のように大木の腕が降ってくる。
 その全てを軽やかに、あるいは危なっかしく避けながら、マンションの周りを壁伝いに飛ぶ。
 背後に目をやれば、そこには先ほどの黒い魔道士。
 手に持つ杖は光を携え、まるでカマのごとく見え。
 音もなく獲物の魂を刈り取る、そう、まるで死神のように。

 速度を調節し、またひとつツタをやり過ごす。
「フェイトちゃん! なんでジュエルシードを集めるの!?
 訳を……理由を教えて! 私たち、協力だってできるかもしれないから!」
 もはや逢うたびに幾度も繰り返された問答。
 しかし返ってくる答えはいつも同じ。
 それがわかっていても、聞かずにはいられない。
「……キミには関係のないことだ」
 <Photon Lancer.>
 そう答え左手をひと振りする。
 瞬間に光の槍が現れ、意のままに標的へと襲い掛かる。
 あわててなのはが急制動をかけ避けると、目の前のツタが光の槍に当たり、途端に爆砕した。
「キミ達には集める理由がある。私たちにも理由がある。
 ……それだけで十分。理解なんて、してもらおうと思ってない!」
 張り上げる言葉に魔力を込め、刃に力を与える。
 目を見開き、標的をしっかりと見据え、一直線に切り裂こうと追いすがる。
 <Flash Move!>
 いままさに振り下ろされた刃の軌跡から、なのはの姿が掻き消える。
 行き場をなくした力は、目の前を揺れる大木を易々と切り裂いて。
 幽かに匂う魔力の流れを追い、上空を振り仰ぐ。
 果たしてそこには、杖を正眼に構えた白服の魔道士が夜空に映えて浮かんでいた。
 月を背に、白く輝いて、まるで天使のように。

「……理解なんて、できないかもしれない」
 ぽつり、と誰に言うでもなく、声を漏らす。
「戦うしかないのかもしれない」
 ぎゅ、と杖を強く握り締める。
 ぎりぎりと音がするほどに、強く、強く。
「でも、それだけじゃダメなんだよ。言葉にしなくちゃ――」
 仕方ないのかもしれない。
 ぶつかり合うしかないのかもしれない。
 ――でも。
 それでも!
「――伝わらない事だって、あるんだ!」
 叫ぶと同時、重力に従って一気に加速する。杖を振りかぶって、ありったけの思いをぶつけるかのように。
「うわあああああああああああっ!」
 頭上を取られた形のフェイトは、その動きに一瞬反応が遅れる。
 避ける間もなく、なのはの杖は一直線に振り下ろされて――
 
 どくん。

 ……杖は止まっていた。
 今まさに、フェイトに当たらんとする寸前で。
 止めたわけではない。受け止められたわけでもない。
 落ちる姿と、見上げる姿。
 二人の姿はあまりにも不自然なまま――まるで出来の悪いスチール写真か何かのように、ぴくりとも動かなかった。
 交錯する二人の影をマンションの奥から、じっと見つめる気配がひとつ。

 その内に、『願いの石』と呼ばれた遺失技術の破片を秘めて。

 

「……なのは!」
「フェイト!?」
 不意に感じ取れなくなった二人の気配。
 何事かと振り返った二人の目に入ったものは、色を失った空間においてなお色のない、モノクロームのドームに囚われた姿だった。
 咄嗟に呪術の鎖を放とうと掌を向けた先に、人影が立ちふさがる。
「バカっ! あれは精神攻撃だ! アンタのご主人様まで植物人間にしちまうつもりかい!?」
 叫ぶ声に、殴られた様な衝撃を受けて。
 震えながら、歯を噛み締めて、ゆっくりと腕を下ろす。
 あれが本当に空間干渉型の精神攻撃だとしたら相当に厄介だ。
 術を受けた者は肉体の強度に関係なく深層心理への浸食を受ける。
 無理に外部から接触を絶とうとすれば精神と肉体は切り離され、結果もの言わぬ抜け殻と化す。
 さらにイメージは肉体への衝撃と違って際限というものがない。
 術者の力量と悪意によっては、瞬時に対象の精神を崩壊させることも可能だ。
 それゆえに精神干渉は固く禁じられた邪術とされている。
 使い手のなくなった魔法はいつしか解く方法すらも忘れ去られ。
 残された二人はただ状況に青ざめ、見守るしか出来なかった。

「なのは……」
「フェイト……」
 一瞬が幾年にも感じられるほどの長い時間の中、ただ二人の身を案じる声だけが響いた。

 

 


 彷徨うように、当てもなく歩いていた。
 花の咲き乱れる小高い丘を、草と花の匂いに誘われるように。
 吹き渡る風にあおられて、足がふと止まる。
 ……ここは……どこなんだろう?
 見たことのない風景。
 なぜ自分はこんな場所にいるのか。
 どこを目指して歩き続けるのか。
 解ることなどひとつもなく、けれど身体は何かに吸い寄せられたように歩みを続ける。

 ざざざ……

 ふと、風の音に混じって、笑い声が聞こえる。
 目をやれば、花畑のただ中で、一組の母娘が笑い合っていた。
 母親らしき女性はとても優しく、愛おしげに娘を見つめ、娘もまた母親を誇らしげに、安心しきった笑顔を満面に浮かべて。
 さわさわと頬をなでるそよ風に、時間が止まったような感覚を邪魔される。
 
 丘の上にはいつまでも、楽しそうな笑い声が響いていた。

 

 

 がちゃ、とドアを開ける。
 カバンをとさ、と置いてもたもたと不器用に靴を脱ぐ。
 靴をそろえて置きなおして、少しの間、そこに立っていた。
 すう、と息を吸い込んで、ただいま、と声を出す。
 けれど静かな家に、答えが返ってくることなく、広い家に声は吸い込まれて。
 ふう、と息を吐いて俯いた。
 カバンを置いたまま、力なくふらふらと居間へ向かう。
 からから、と乾いた音を立てて戸を開く。
 真っ暗な部屋は寒々として、前に見たホラー映画のようだった。
 ぱちん、と電気をつけると、テーブルの上におかれた紙片に気がついた。
 何の感慨もなく、手にとって書かれた内容を読む。
 いつもと同じ内容。
 読む前から解っていた事。
 くしゃ、と握りつぶしてゴミ箱へ投げる。
 そのまま居間を後にして、着替えもせずに洗面所へ向かう。
 憤りをぶつけるように力任せに蛇口を開いて水を出す。
 じゃあじゃあと流れる水をしばらく見つめた後、両手を差し出して水をすくう。
 ばしゃ、と顔に浴びせた。
 ばしゃ、ばしゃ。
 何度も繰り返す。
 ぽた、ぽたと顔から水が流れ落ちる。
 また、ばしゃ、ばしゃ、と水を浴びて。
 肩を震わせながら、ぽた、ぽたと水を滴らせて。


 じゃあじゃあと水の流れ落ちる音を聞きながら、私はその女の子をずっと見守ることしか出来なかった。

 


 しん、と静まり返った屋敷。夜も遅く、草木さえ眠るような時間。
 もぞ、と暖かいベッドを抜け出して、トイレへ向かう。
 昼間の訓練で節々の痛む身体を引きずって。
 ふと、明かりの漏れる部屋を見つける。
 そっと近づいて中を覗く。
 見れば妙齢の女性が椅子に座ったままテーブルへ突っ伏して、すうすうと寝入っていた。
 音を立てないように細心の注意を払って中へ入る。
 そばのベッドから毛布を取って、起こさないようにそっとかけた。
 テーブルの上には蓋の開いたままのお酒のビンとグラス。
 そっと寝顔を覗き見れば、頬に一筋、涙の跡。
 きゅ、とこぶしを握って振り向き、静かに部屋を出る。
 おやすみなさい、と小さく小さく呟いて、またベッドへと戻る。


 その姿を見送って、私はただ立ち尽くしていた。

 

 

 

「お父さん、ほら、芽が出たんだよ!」
「お、本当だ。じゃこれからしっかり観察日記つけなきゃな」
「このお花、どんどん伸びるんだよね?」
「ああ、そうだよ。お前とどっちが背が伸びるか競争するつもりなんじゃないか?」
「ぶー、あたしだっておっきくなるもん!」
「ははは、そうだな、じゃあちゃんとピーマンも食べるんだぞ」
「あう」

「お父さん、これ難しいよー、手伝って」
「ん? ああそうか、もう支柱立てなきゃいけないんだな。よし貸してごらん」
「これにつるが絡まってくんだね」
「そうだよ。あっというまにどんどん伸びて、ぐるぐるいっぱいになるんだぞ」
「わー、楽しみだなぁ」

「お父さん、綺麗にお花を咲かせるのってどうすればいいの?」
「んー……そうだなぁ、お花に向かって、たくさんお話をしてあげると綺麗に咲くって聞いたことがあるな」
「じゃあ、いっぱいおしゃべりして上げればいいのかー」
「毎日毎日、きちんとお話してあげるんだぞ。サボったりしたら、お前みたいに拗ねるかもしれないからな」
「ひどいよー」

「ごめんな、ちょっとお仕事で、遠くに行かなきゃ行けないんだ」
「お家に帰って来れないの?」
「うん、少しの間、お留守番しててくれるかな」
「いつごろ戻ってくるの?
「うーん……そうだな……朝顔が咲く頃には帰ってくるよ」
「ホント? じゃ私、すごーく綺麗なお花咲かせて待ってるよ!」
「ははは、楽しみにしてるよ」

「ただいま!」
「ずいぶん大きくなったね」
「今日、お買い物に行ったらねぇ」
「いっぱい、いっぱい、綺麗なお花咲くといいね」
「はい、ご飯。たくさん食べて、どんどん大きくなってね」
「お父さん、早く帰ってこないかなぁ」
「いただきまーす」
「あ、つぼみだ! もう少しで咲くんだね」
「……お父さぁん……」

 

 

 唐突に、宙に放り出された。
 いつのまにか、目の前には黒の魔道士服を着た女の子がいて。
 ……幻だったのだろうか。
 だけど女の子の――フェイトの姿を見ていると、あれは多分本当のことなんだろうなと、なんとなく思った。
「……今のは……」
 あたりを見回して、フェイトがこぼす。
 あたりはただただ黒いだけの闇が広がっているだけ。
 これもまだ、夢の続きなのかもしれない。
 ……夢なら、いいよね?
「フェイトちゃん」
 かけた言葉に驚いて、構えるフェイト。
 けれど先ほどまでの殺気はまるでなく、何かに怯えているようにも見えて。
「……笑って、欲しかったんだね?」
 目を見開いて、ぎし、と止まる。
 はぁ、はぁ、と息を荒くして、手にした杖を油断なく構え。
「キミには、関係ない!」
 その言葉に、ううん、とゆっくり首を振る。
 す、と手を上げ、指差して。
「だって、フェイトちゃん、泣いてるもの」
「――――!」
 ぱた、ぱたと零れ落ちる雫。
 それはあとからあとから湧き出て、いまさら止めようもなかった。
 かたかたと手にした杖が震える。
 しばし見詰め合って、言葉もなく。
 ぽろぽろといつまでも雫は零れ落ちて。

 不意にぽ、と二人の間に光が灯る。
 それは優しい青を振りまいてくるくると回り、辺りの闇を振り払うかのように輝いていた。
「ジュエル……シード……」
 呟いたフェイトの身体はしかし動くこともせず。
 ただゆっくりと回るジュエルシードを不思議そうに見つめているだけだった。
「フェイトちゃん、聞こえたよ」
「……?」
 なのはの指がゆっくりと動き、闇の一点を指す。
 すると指差した先には小さな、本当に小さな花のつぼみがひとつ、闇の中に浮かんでいた。
「この子の声」
 す、と一歩歩いて、闇夜を明るく照らす光へ手を差し伸べる。
 ゆっくりと光はなのはの手に収まり、かすかに音を漏らした。
 そのままなのははフェイトへ歩み寄る。
 フェイトは杖を構えたまま、なのはを見据え、微動だにしない。
 そっとなのはが掲げた掌には、ゆっくりと回る願いの石。
「あげるから、笑って。泣かないで、って」
 がしゃ、と杖が音を立てる。
 ざ、と逃げるように一歩下がって。
 叩きつけるように大きく叫んだ。
「ふ……ざけるなああああああ!」


 瞬間、世界が割れる音が聞こえた気がした。

 

 

 ガラスが砕ける音。
 甲高い、耳に障る音を立てて、モノクロームの空間が破片となってあたりに飛び散った。
「なのは!」
「フェイト!」
 瞬時に空を蹴って、大きく飛びずさる。
 まるで何時間も戦っていたように、疲労の色を濃くして、肩で息をする。
「……アルフ、退くよ」
「フェイト!? ジュエルシードは!?」
 ちら、と白い服の魔道士を見る。
 こちらを見て、今にも泣きそうな顔をしている、何度も戦った敵。
 その握り締めた右手が青く光を放っているのを見て、苦々しく眉をひそめる。
「……あんなナンバーはくれてやればいい。他を探すよ」
「……フェイトが言うなら」
 
「フェイトちゃん!」
 叫ぶ声も夜空へと消えて。
 黒の魔道士と赤狼は闇の中、何処ともなく消えていった。
「なのは、大丈夫!?」
 ぼろぼろと崩れ落ちる巨大なツタ。
 それは地面へと落ちる前に光の粒子へと変わり、虚空へと消える。
 わずかの後には、何事もなかったようにマンションがそびえ、月明かりを受けて白く光っていた。
「ユーノくん……」
 ぎゅ、と右手を握り締めて。
 篭れ出る光を悲しく見つめ、そっと胸元へ掲げる。
「私、強くなる。もっと、もっと。誰も悲しませないぐらいに」
 その言葉は、果たして聞き入れられたのか。
 願いの石はただ青く光を振りまいて。

 

 夜空には白く、星が一筋尾を引いて流れ落ちた。

 

 

 

 

 ぴんぽーん。
 不意にドアチャイムが鳴る。
 がば、と起きて、読んでいた雑誌を放り投げる。
 ばたばたと騒々しくドアを開けると、大好きな顔がそこにあった。
「おかえりなさーい!」
「おう、ただいま。いい子でお留守番してたかい?」
 挨拶もそこそこに手を引っ張って、ベランダへ連れて行く。
 そこには慎ましく、けれどおおらかに、鉢からこぼれんばかりの朝顔が咲いていた。
「今朝、ようやく咲いたんだよ! お父さん帰ってくるの、知ってたのかな」
「へえ、頭のいい奴だな。お前がいっぱいおしゃべりしてあげたおかげかもな」
 そういって、頭をひとつ撫でて。
 女の子は嬉しそうに、心から喜んで、花のような笑顔を咲かせる。
「えへへ。ねぇねぇ、お土産はー?」
「ありゃ。褒めるとすぐこれだからなぁ……はいはい、ちゃんとありますよー」
「わーい! お父さん、大好き!」

 

 初夏の風に乗って、笑い声が空へと響き渡る。
 ベランダの花は風を受け、ゆらゆらと揺れて。

 

 


 女の子の笑顔を見て満足そうに、頷いたように見えた。

 

 

 

 

 

             fin.

 







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