涼やかに初秋の夜風がそよぐ。
どこか懐かしい記憶を掘り起こさせるような、そんな空気にしばし身を任せる。
見上げれば天にはどこまでも映える様な真っ白な真円。
煌々と照らす灯りは家々を浮かび上がらせ、海鳴市の人々を祝福しているようであった。
向かいの家の屋根に、寄り添うように佇む二匹の猫の影が浮かぶ。
それがなんだかとても微笑ましくて、しらず口の端に笑みを浮かべ、じっと見入っていた。
ヴォルケンズ小夜曲「朱と蒼の舞踏会」
かいたひと:ことり
と、不意にキイ、と音がする。
少し驚いて屋根裏からの出入り口を見ると、蒼毛赤眼の狼がのそ、と這い出てくるところだった。
「ここにいたのか、ヴィータ」
流暢な言葉が狼の口から流れ出す。外見にそぐわぬ優しい声と口調に、ヴィータと呼ばれた少女は興味なさげに、視線を元に戻した。
「こんなところで何をしてたんだ? 珍しい」
そう呟いて、狼が隣へうずくまる。天を見上げ、ひとつ身震いをして。
「別に。なんでもねーよ。ただ……月があんまり綺麗だったから」
「ああ、綺麗な月だな」
一人と一匹はしばらくの間無言で。けれど居心地のよい、和んだ空気のまま、並んで月を見上げていた。
「……なんか、ザフィーラとこうして話すのって、結構久しぶり、な気がするな」
いつしか屋根の上には猫の姿もなく。
遠く潮の香りを運ぶ風だけがそよいでいた。
「……そうか? 散歩のときなどはいつも話してるような気がするが」
「そーいうんじゃねーよ。こうして落ち着いて、二人だけってのは……うん、なかった気がするな」
そういって少女は赤色の瞳を覗き込む。
狼は少女の貌を見て、少し感慨にふけった。
……ヴィータは変わった。いや、変わったのはヴィータだけではない。我ら皆、諸共に。
変わった、という表現が合っているのだろうか。むしろ、これがこの年端も行かない戦士の、本当の表情だったのだとしたら。
今までの我らは、ありていに言えば――ただの道具だった。
闇の書のページを埋めるためだけに使役される、ただのプログラム。
我らの自意識など主となるものの前ではなんら意味をなさず、ただ戦って戦って、使いつぶされる日々。
情けをかけられるわけもない。
すべては主のために。我らはそうやって生きてきたのだから。
「なぁザフィーラ、久しぶりに組み手やってくれよ!」
唐突に少女が身を乗り出して、いたずらな笑みを浮かべる。
きらきらと光る瞳に押され、狼がたじろぎながらも答えた。
「……なんだまた。唐突だな」
「ああ、なんか月見てたら、そんな気分になったんだ。最近身体も鈍ってきたしよ、ちょっと付き合ってくれよ」
すっと立ち上がる少女を見て、ひとつ息をつく。
わがままというか、奔放というか。
けれど楽しそうな顔を見ていると、怒る気もうせてしまう。
今日の自分はどこか変だな、と自覚して。
――まぁ、そんなときもあるのだろう。
優しくそよぐ風の中空を見上げ、狼がふ、と笑みを浮かべる。
眼を閉じ、意識を内に向ける。
蒼い毛並みから微かに光がこもれ出て、きらきらと夜風に燐粉を撒き散らす。
狼の姿が光の中奇妙に歪んで、再び辺りに静寂と静穏が戻る頃――そこには、浅黒い肌に赤色の瞳を持つ長身の青年が佇んでいた。
「――少しだけだぞ」
その声に満足したように、少女は不敵に微笑んで。
胸元の首飾りを握り、天に捧げ、ひとつ吼えた。
「グラーフアイゼン、セットアップ!」
<Jawohl!>
合成音が主となるものの呼びかけに答え、あるべき姿へと戻っていく。
アクセサリーほどの大きさでしかなかったそれは、いまや見る見るうちに大きさを増し――全てを砕かんと唸りを挙げる、巨大な鉄槌と化した。
身の丈に余るそれをぶおん、と片手で軽々しく振り、手の中の重さを確かめる。
に、と笑って両手で握り、祈りを捧げるかのように天を衝く。
一瞬の閃光が走った後、少女のシルエットが砕けたように闇に混ざり――刹那の後、そこには真紅のドレスを身にまとう、戦士が立っていた。
青年は先ほどとまるで違う雰囲気の少女をみやり、首をこきり、と軽く鳴らして呼吸を整える。
周囲の色が消え、そよいでいた風が凪ぎ、虫の声がぴたりと止まるとともに、どちらからともなく言葉が出た。
「さて」
「始めるか!」
星降るような空に二つ、影が幾度も交差する。
燃やし尽くすような朱が鉄槌を振り下ろし、大地を砕かんとばかりに咆哮をあげる。
どこまでも深い深遠を映し出す蒼が四肢を軋ませ、赤い瞳に映る全ての障害を排除せんと拳を振るう。
受け止める衝撃に笑みを返し、離れてまた高らかにときの声を上げる。
流して叩き、かわす背中に追いすがる。
くるくると回り、荘厳な曲を奏でるように。
今ここにたった二人だけの世界で互いだけの呼吸を感じ、熱い衝動のたぎるままに、月明かりの中、踊り続ける。
言葉もなく叫び、対の名を呼び合って。
交わす拳に願いを込め、ありったけの想いを注ぎ込む。
まるで恋人たちのロンドのように。
熱く、熱く、愛を語るように。
二人見詰め合って、月明かりの中時を忘れるように、いつまでも踊り続けていた。
潮風が肌に心地よい。
汗ばんだシャツをぱたぱたとはたきながら、戦士から戻った少女が屋根に寝っ転がっていた。
かたわらに静かな瞳の狼を従えて。
「ぶはー、あちー。もう秋だってのに、動くとまだ暑いのな」
そうぼやいて、結んでいたお下げを解き、後ろ髪をかきあげる。
ばさ、っと風をはらんで、夜の闇に朱が撒き散らされた。
長い髪を苦戦しつつ纏め上げる姿を見て、狼がす、と目を細める。
……こんな日が、我らにこようとはな。
戦い続けた日々。壊されて砕かれ、何度も滅びを繰り返して。
終わりのない牢獄に絶望することすら許されず、己を殺し続ける毎日。
疑問すら抱かなかった。ただそれだけが、自分の存在意義だと信じていたから。
きらきらと汗にぬれる肌に、月明かりが映える。
夜空を朱で塗りつぶすかのように風をはらみ、厳かにたなびいて。
初めて見るような少女の表情に、少しだけ鼓動が早まる。
穏やかな赤で、慈しむように眺めながら。
「あんだよ、じろじろ見て。……悪いモンでも食ったか?」
不意に投げられた言葉は、いつもの悪びれた口調で。
柄にもない自分の考えに、苦笑が漏れる。
らしくない、と軽く叱咤しながら。
「いや。なんでもない。ただ……」
そう呟いて、蒼い狼が空を見上げる。
赤い瞳に白く光る銀盤を映し、たなびく朱を焼き付けて。
「……月が綺麗だな、と思っただけさ」
fin.
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