湯上りの髪をタオルで拭きながら、階段を上がる。
 先に上がった大切な友人にジュースとお菓子の土産を持って。
 ぱた、ぱたとスリッパの音を響かせ、自分の部屋へ向かう。
 明日は自分も友人もお仕事はお休み。
 お気に入りのパジャマを着て、ちょっと気合を入れる。
 久しぶりに夜を明かして、いっぱいお喋りしよう。

 この時間が、何よりも大切だから。

 

 なのはさん全開劇場 「うた」

    かいたひと:ことり

 


 階段を上がれば、部屋はそう遠くない。
 中には先にフェイトが待っているはずで。
 扉を開ければ、またいつもの笑顔で出迎えてくれるのだろう。
 自然にほころぶ顔を隠そうともせず、お湯でほてった頬を少し気にする。
 いや、へんな期待をしてるんじゃないよと、誰に言い訳をするでもなく。
 ぶんぶんと頭を振って、にやけた口元を一度締めなおす。
 また姉に見つかってからかわれるのはごめんだ。

 ドアの前に立って、ジュースとお菓子の乗ったお盆を抱えなおす。
 少し身をかがめてノブを引こうとすると、不意に聞こえてくるメロディに気づく。
 ただふんふんと、鼻歌ではあったけども、間違いなくそれは歌で。
 とても優しい、けれどどこか物悲しい響き。
 不自然な姿勢のまま、しばし聞き入る。
 歌っているのは間違いなく友人の声で、聞いたことのない調べに、夢の中のことなのかと錯覚する。
 と、不意に階下で起こる笑い声に、我に返る。
 こうしててもしょうがない。なんだかちょっと悪い子の気分になって、そっとドアノブに手をかけた。

 

「あ、なのは、お帰り。早かったね。のんびり入っててもいいのに」
 花の咲くような笑顔。
 火照った頬がまた熱くなるのを覚えて、あわててお盆を机に運ぶ。
「にゃはははは、フェイトちゃん待ってるのに悪いよー。はい、ジュース」
 二本のうちの一本を渡す。
「ん、ありがと」
 お礼の言葉を聞きながら、にっこりと笑みを返す。
 自分の分のプルタブをぷしゅ、と捻って、高く掲げた。

『かんぱーい!』

 


 とりとめもなく、真夜中のおしゃべりは続く。
 学校のこと。友達のうわさ。先生の悪口。
 お仕事の辛さ。新しく見つけたお店。進路。
 楽しいときは本当に本当に、あっという間にすぎていって。
 
「でね、みどりちゃん、そのときにねー」
 ベッドに腰掛けて、ころころと笑う声。
 ふと、部屋の前のことが脳裏に浮かぶ。
 自分の知らない友人の声。
 あのときには、いったいどんな顔をしていたのだろう。
 遠く聞こえる教会の鐘のように、虹の彼方から運ばれてくるような幻想的な音。
 気づくと会話の止まった私を覗き込むように、友人が怪訝な顔を向けていて。
 あわてて手を振り、ごめんごめんと苦笑いをする。
「変ななのは……私の顔、なにかついてる?」
 くすくすと笑われて、ぷーっとむくれる。
 ……でも、やっぱり気になる、かな。
「……ね、さっき歌ってた歌、ちゃんと聞かせてくれない?」
「え、さっき……って」
「私が部屋に入る前に、フェイトちゃんが歌ってた奴。なんだか、すっごく綺麗だったから、気になっちゃって」
 ふともらした何気ない言葉。
 それを聞いた瞬間に、みるみる赤くなっていく友人。
「え、いや、あのっ、あれは……わ、忘れて、忘れてっ!」
 ……あれ、なにか触れちゃいけないことだったのかな。
 そんなことを思っても、狼狽する姿があまりにも可愛くて、少しいじわるをしたくなった。
 カップをぽんと机に置いて、フェイトの隣に腰掛ける。
 もじもじしてる肩に手をかけて、真っ赤になって俯いた顔を下から覗き込んだ。
「やーだ。ね、ね、聞かせてー」
 う、と固まる表情。
 お願いを断りきれない友人を困らせてみる。
 にこにこと愛想を振りまいて、肩を揺らす。
 あうあうと呻きながら、しばらくの後、ようやく観念したように呟いた。
「ちょ……ちょっとだけ、だよ……?」
 か細い声で、耳まで赤くなりながら答えてくれる。
 にぱーっと笑って、肩から手を離し、座りなおす。
 うう、とほとんど泣きそうになりながら、フェイトは背筋を伸ばして、すうっと息を吸い込んでいった。

 


 透き通る鈴の音。
 聞いたこともない異国の言葉。
 初めて聞くのになぜか懐かしい、胸に響く暖かい旋律。
 それよりもなによりも私をひきつけてやまない、親友の横顔。
 紅い澄んだ瞳を伏せ、胸に両手を当てて、フレーズの一つ一つをとても大切に抱きながら。
 薄く桜色の唇から篭れ出る、優しい歌声。頬をうっすらと赤くさえ染めて。
 この歌は誰に聞かせるものなのだろう。
 とても優しい、でも少し寂しげな旋律。
 何かを思い出させるような、涼やかに響き渡るメロディ。
 気づけば親友に習うように目を伏せて、浮かぶ情景に身を任せ、聴き入っていた。

 


 ふと。続いていたメロディが途切れる。
 夢の中から追い出されたように、不意に我に返って、顔をあげる。
 こぼれ落ちる金に隠れて、表情は見えないけれど、その肩はなんだか震えているように見えて。
「フェイト……ちゃん? どうし……」
 言いかけて。
 膝の上に置かれた手に、ぽつりぽつりと落ちる雫を見つける。
 ――泣いている。
 その事実に、胸が締め付けられる思いがして。
 慌てて謝罪の言葉を投げる。
 ごめんなさい、ごめんなさいと謝り続けて。
 何が悪いのかもわからぬままに、ただただ、無性に湧き上がってくる罪悪感に突き動かされる。 
 ふるふると首を振って、違う、なのはが悪いんじゃないんだという言葉だけが聞こえた。
 
 触れる事すらためらい、ただおろおろとする私の前で。
 しばらくの間、長く尾を引いて、嗚咽の声が部屋に留まっていた。

 

 

「この歌ね……小さいころ、母さんがよく歌ってくれてたんだ……」
 ひとしきり泣きはらして、ようやく落ち着いたころに、ぽつりぽつりと、フェイトが話し出す。
 二人ベッドに仰向けで寝転んで。
 天井を見上げる親友の顔は儚げで、手を伸ばせば消えてしまいそうに見えた。
「一緒にピクニックに行った時も……寝る前に、私がぐずっていた時も、夜中に目を覚まして怖くて泣き出した時も……
 いつも母さんは優しくて……私の頭を撫でてくれながら、この歌を私に聞かせてくれてた。
 この歌は……幸せだった母さんとの思い出なんだ」
 幸せの歌。ああ、そうだったんだ。だから、あんなに大切に歌えたんだ。
「……ごめんね。お母さん、思い出させちゃって……」
 ぼそ、と謝るなのはに、ううん、と首を振って、フェイト。
「違うんだよ……私、多分、この歌を聴いたことないから」
「……え?」
 話し続ける親友の顔は寂しげに微笑んだまま、天井を見据えて。
 誰に聞かせるでもなく、あくまでも独白のように。
 何もない宙へ向かって言葉を投げかける。
「……わかってるんだ。母さんは、私に歌を歌ってくれたことはない。
 この歌は……アリシアに向かって聴かせていた、ただの刷り込まれた記憶なんだって」
 つきん、と胸が痛む。
 母に愛される娘の姿。目を閉じれば鮮明に浮かんでくるそれが、ただの幻だと実感した時。
 それはいったい、どのような絶望なのだろうか。
 自分が、思い出させてしまった。
 古い古い、はがれかけていたかさぶたをえぐるように。
 いたたまれなくなって、思わず目をそらす。
「今でも時々……夢に見るんだ。アリシアじゃなく……私に微笑んで、この歌をやさしく歌って聞かせてくれる母さんの声……
 そんな事、ありえないってわかってるのに……馬鹿だよね、私」

 きし、とベッドのスプリングがきしむ。
 寝転がったフェイトに、なのはの影が落ちて。
 そっと手を重ねる。
 触れることで何かを、切々と伝えるように。
「フェイトちゃん、その歌……教えてくれないかな?」
 虚を突かれたように目をまたたいて。
 静かな声で、けれど確かな重みを込めて、なのはが呟く。
「私が、歌ってあげる。フェイトちゃんに私から、幸せをあげる。
 欲しかった分、全部、全部あげるから……だから、教えて」
 きゅ、と重ねられた手に力がこもる。
 それはとても小さく、頼りなく、あまりに弱弱しかったけれど。
「いっぱい、いっぱい、幸せにしてあげるから……だから、そんな哀しい顔しないで」
 真っ直ぐに見つめてくる、なのはの瞳。
 それだけで、胸がいっぱいになって。
 どうしようもなく、奥底から溢れてくる気持ち。
 それは高く築かれた心の堤防をあっけなく打ち壊して。
 そっと差し出された指が頬を優しくなぞって、零れ落ちた涙をすくう。
「いつも、そばにいてあげるから……」

 覗き込むその目に、私が映る。
 瞳の中の自分は、ひどく滑稽に歪んだ顔で。
 情けなく涙ぐみ、汚くて、醜くて。
 なのにそんな姿を映し出すこの鏡は、なんと綺麗なのだろう。
 にじむ世界に一人残されて、押し込めていた感情があふれ出る。
 気づけばすがるように抱きついて、みっともなく声をあげ、子供のように泣きじゃくっていた。

「あ……あう、うっ……なのは……なのはぁっ……」
 優しく私を包み込んでくれる温かい腕。
 ふわ、と頭に降ろされた掌が撫でさすってくれる感触がなによりも今は嬉しくて、切なくて。
 一度堰を切って出た涙はあとからあとから、寂しかった時間を押し流すように、とめどもなく溢れてくる。
「夢なんかじゃなく、幸せな思い出、いっぱい作ろうよ。いつも、いつも一緒に。
 だからお願い。フェイトちゃん、笑って――泣かないで」

 それは、私が一番望んでいた言葉。
 虚像だった幸せ。
 そんなものは私にはないんだと思っていた。望んではいけないんだと決め付けていた。
 私は――幸せになっても、いいのだろうか。
 この温かい胸に抱かれているだけで、十分すぎるほどに幸福だというのに。
 私はまだ、『これから』を望んでも、いいのだろうか。
 ……ねぇ、なのは?
 
 そっと頬に伸ばされた手に、なのはの顔を見上げる。
 涙でぐしゃぐしゃになって、ひっきりなしにしゃくりあげる私にゆっくりと諭すように、声が届く。
「一緒に、幸せ、作ろう?」
 つ、と涙を拭われ、目を閉じた私に、かすかになのはの息が近くなってきて。
「……フェイトちゃん、大好き」

 

 ほんの少しの間、私の嗚咽は止んでいた――――

 

 

 

 

 


 それから、何度か日が昇り、また落ちて。
 いくらかの日々が過ぎ去ったころ。
 小高い丘の上の花畑に、少し背丈を伸ばしたなのはの姿があった。
 かたわらに小さな少女を連れて。

 草の上に座る二人、向かい合って。
 お弁当を入れたバスケットケースがお行儀よく見守る中、なのはがせわしなく手を動かす。
 手の中には連なる花の色彩が所狭しと踊っていて。
「ね、とっても綺麗でしょ、ヴィヴィオ?」
 そういって、女の子に編みあがった花冠を見せる。
 出来上がる様子を一心に見ていた少女は、満面に微笑んで。
「ほらおいで、ヴィヴィオ」
 名前を呼ばれて、なのはのほうへ身を乗り出す。母親に甘えるように。
 そっと小さな頭に花冠を乗せて。どこまでも愛しげに、微笑みを投げかける。
「うん、とっても可愛いよ、ヴィヴィオ……」
 かけられた言葉に嬉しくなって、二人顔を見合わせ、笑いあう。
 まるで親子のように。

「ねえなのはママ。また、お歌歌って!」
 一面に咲く花よりも輝く笑顔で、娘が母親にお願いをする。
 いつもいつも優しい声で聞かせてくれる、あの歌を。
「ん、いいよ……この歌はね、フェイトママの大事な大事な人が教えてくれた、とっても大事な歌だから。
 ……この歌を聴いて育った子はね、みんなみんなフェイトママみたいに、優しくて、綺麗で、とっても素敵な人になれるんだよ」
 いつもなのはは、必ずそういってから歌を聞かせる。
 けしてそれは、夢や幻なんかではないのだと。
 紛れもなくそれは大事な娘に送られた、確かな愛の形なのだと。
 たとえそれは思い出の中だとしても。

 野辺に咲く花は枯れようともいつか実をつけ、やがて種となって大空へと舞うだろう。
 絶望の絶壁に辿り着くとも、力強く、大きく根を張って。
 そうしてまた、花は咲く。脈々と受け継がれる愛を胸に。

「だからヴィヴィオ、お願い。あなたが大きくなって、誰か大事な人ができたら。
 ――この歌を、教えてあげて。たくさんたくさん、一緒に歌ってあげて。
 一緒に……幸せになってあげて」

 

 小高い丘に風が吹く。
 精一杯に咲く花たちを輝かすように、優しく撫で行きながら。
 空高く響くコーラスを、はるか夢の彼方まで運んで。
 暖かい日差しの中で二人、在りしあの日の姿を映し、どこまでも聞こえるように、高らかに歌う。

 

 

 とてもたいせつな、しあわせのうたを。

 

 

 

 


              fin.

 







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