さく、さくと雪を踏み進む。
あたりを埋め尽くす風景はただただ、一色に染まっていて。
純白の雪を見ていると彼女を思い出すようで、少し寂しくなる。
はらり、とまた白が舞い降りてくるのを頬に感じ、空を見上げた。
「ああ……また降ってきたね。なのは、寒くない……?」
高地民族でもあったスクライア一族の彼は、この標高と寒さを心地よくすら思う。
けれど彼は共に連れている少女をただひたすらに想い、彼女を案じる言葉を投げかける。
そっと胸元の紅い殊を握り締め、懐かしいというには早すぎる、彼女の名を呟いた。
「なのは……」
「なのはと愉快なご主人様たち」
最終日 「あの日のように」
――ピ――ピ――
白い壁。窓には白い厚手のカーテン。
規則的な電子音が静かに響く中、医療用ベッドを囲み、数名の男女が沈痛な面持ちで佇んでいる。
呼吸用の補助マスクから送られる空気に、薄く胸が上下している様をじっと眺めて。
まだ、終わったわけじゃない。すぐに元のように笑ってくれる。一緒に話せる。
ともすれば絶望に沈みそうな気分を必死に奮い立たせて。
病的なまでの白で塗りつぶされた部屋で、誰もが無力感に打ち震え。
ただ過ぎ去っていく時間と共に、規則正しく電子音が響いていた。
外因性の麻痺。
なのはが事故で負った枷は、いつしか転移・蔓延し、まるで作物を荒らす害虫のように、徐々に徐々に、なのはの身体を蝕んでいった。
当初は両足の膝から下だけであった。
二度と歩けないという事実は激しく彼女の心を打ちのめし、希望というものを少なからず奪った。
彼女の親友達と周囲の献身的な介護の結果、ハンデは残ったものの、一応は立ち直った。
……かに見えた。
異変は半年を過ぎた頃に起こる。
不意に、あまりに不意に、なのはは左手の指先に痺れを覚えた。
本人は自覚無く、たまたまのものだろうと判断して、周囲には何も言わなかった。
それが始まりである。
痺れは日を追うごとに場所を増やし、範囲を広くし、あちこちに飛び火する。
指先に至ってはすでに感覚を失い、動かすことも困難になってきていた。
食事中に食器を取りこぼす様を見られ、ついには知られることとなる。
『脊髄の著しい損傷による拡大性の全身麻痺』
医者の突きつけてきたカルテから読み取れる事実は、それを如実に物語っていた。
そうしてなのははその日から、この病室で日々を過ごす事となる。
やがて起き上がることも困難になり、症状はさらに進行を続ける。
その内に目を開けることがなくなり、なのはは眠り続ける。
かつて彼女が彼女たる象徴の様でもあった、白の中で。
とうに陽もくれた時間。
相も変らぬ規則的な電子音の響く部屋の中、かわらぬ様に眠り続けるなのはの傍、赤毛の少女と金髪の女性が佇む。
なのはの寝顔を覗き込む視線は優しく、けれど冷たく、期待と哀切をはらんだ複雑なものだった。
椅子の背を前にして、背もたれを抱えるように座っていた赤毛の少女がふう、と息をつく。
どこか遠くを見つめるような、気だるげな表情を浮かべて。
金髪の女性がちら、と左手の時計を見る。
椅子の軋む音と共にふらりと立ち上がり、少女に声をかける。
「……ヴィータちゃん、帰ろう。また……明日、ね?」
まるで全霊を絞ったように漏れ出る声には全く力無く、誰に話しているのか、それすらも解りかねるような、そんな声だった。
虚空へと投げかけられた声に、長い長い時間を要して、小さな影がようやく短く答えを返す。
「……ああ」
女性――シャマルが荷物をまとめる姿は緩慢で、魂もない抜け殻のように、どこまでも空虚だった。
うすいベージュのショールを羽織り、もう一度少女とベッドの上をみやる。
椅子に座ったまま微動だにしない少女を切なげに見つめて。
「……先、出てるよ。待ってるから」
そういって、ぺた、ぺたとスリッパを響かせ、人形のようにドアを開く。
疲れた視線を後ろへ一度送り、一つ息をつく。
ぱたん、と音を響かせたきり――再び室内には静寂が戻った。
「――おい、起きろよ」
病室にはただ二人。返事が返る事は無く。
力なく握られた拳は膝のうえで居心地悪そうに佇む。
光のない視線を向けた先には微動だにしないなのはがいて。
語りかけれど答えてくれず、その瞳が開くこともなく。
「次はあたしの番だっていっただろ」
栗色の髪の毛をみて思い浮かぶのはあの日の笑顔。
桜色の唇をみて浮かぶのはいつかの笑い声。
「この前は負け越したけど、あのゲームすっげえ練習したんだぜ。今度こそはけちょんけちょんにしてやるんだって、頑張ったんだ」
わずかに鼻息を荒くして、なおもヴィータは語り続ける。
「お前、いっつもいつも勝ち逃げばっかりじゃねーかよ。なんだよ、また逃げんのかよ」
いつしか強く強く握りしめていた拳がぎりぎりと音を立てる。
椅子と床がかたかたと擦れ合い、打ち付け合って小さな音を出す。
「何とかいえよ。また……あの日みたいに……一緒に遊ぼう、って……いってくれよ……」
白く白く、闇の中にあってなお白い部屋。
すべてを無慈悲に塗りつぶすように、何もかも始めからなかったかのように。
ただただ白いその部屋に、言葉少なく、ただ二人。
「ずりぃぞ……なのは……」
ややあって放たれた言葉はその中で一番弱々しく、けれど重く。
白い部屋はその思いすらもかき消すように、冷たい静寂をもたらして。
それきり、部屋の中は時間を止めた。
月明かりだけが、二人を見守るように、煌々と明るく。
「あ、はっ! ああっ!」
ほの暗い部屋に乾いた音が響く。
さして広くもない部屋に男と女。
ひっきりなしに嬌声をあげ、貪るように行為にふける。
手足をベッドへついた女を獣のように後ろから荒々しく突けば、ひとつ打つ度に甲高い声が上がる。
まるで万華鏡のようにくるくると表情の変わる声を愛でていく。
普段であれば酔いしれるように耳を喜ばせるはずのその嬌声は、今夜に限っては男をただ苛立たせる。
なぜかはわかっている。いや、わかっているからこそこれだけ苛立つのだ。
憤りは動きをさらに激しくし、その激しさは女に声を上げさせることになり、その声は男に苛立ちを与える。
まるで不毛な行為。
何も生まず、何も解決せず。いったいいつまでこのようなことを続けるのか。
大きな憤りをぶつけるように、なかば八つ当たりに近く、奥へと打ち付けた。
「ひ、はんっ……!」
シーツを握りしめ、ふるふると背中をふるわせる女をしばし、深くつながったまま見つめる。
欲しいなら素直に欲しいといえばいい。
なのに彼女はいつもいらないという。
出会ったときからその繰り返し。
いつまで続けるのか。
自分はいつも、その度に偽善者の顔を浮かべて願いを叶えてきたというのに。
「んっ……くぅん……」
奥まで挿さった自身を感じても、さらなる刺激を求めて彼女が男の顔を振り向く。
あの、出会った頃の、寂しそうな顔をそのままに、自分へと向けて――
「やぁ、も……もっとぉ、動いてぇ……!」
瞳に映るのは自分ではない。そこにはただ暗い情欲。
切なげに歪められた眉を見て、ぎり、と歯を噛む。
吐息とともに肩を落とし、重く沈んだ胸の内をそのままに、ず、と音と未練を残して繋がりを解いた。
「あっ……やだ、クロノ、抜かないで……もっと、してよおっ!」
大理石の彫刻のように、芸術的ともいえるほど白く美しい尻を振りたくり、フェイトが欲望のままにねだる。
とろとろに蕩けたそこを見て、理性で押さえられる者はいないだろう。
普段ならば自分だって例外ではない。
いまだ堅く屹立したままの自分自身だって、我慢などしていられないはずだ。
目の前の極上の雌が、雄である自分を誘う。
ただ貪り合って、満たされればいい。
なのにいくら肌を重ねても、渇きは癒されず、飢えは酷くなるばかり。
「――いつまで、そうしていれば気が済むんだ」
きし、とスプリングをきしませて、熱を求める体を押しとどめ、冷えた心で問いかける。
「何の解決にもならないことなどわかっているだろう。こんなことをしていても、余計に辛くなるばかりだ」
フェイトの潤んだ瞳が、今日に限って濁って見える。
自分を騙し、自傷行為をして、救われた気になる――そんなことは欺瞞だ。何も、何も変わるわけはない。
深く息をついて、汗に濡れ、乱れたフェイトの髪をすく。
こんなにも大事に思っているのに、フェイトはいつも自分を見てはくれない。
それがとても辛く、何よりも自分を苦しめる。
触れれば壊れそうな妹。
幸せに笑ってさえいてくれれば、他にはなにもいらないのに。
重苦しい息を吐き、おもむろに立ち上がる。そのままローブを手に、シャワーへと向かった。
しばしフェイトは身を震わせ、うすく唇を開く。
「……だって……わから、ないよ……私……どうしたらいいの? どうしろって、いうの?」
やっと絞り出した声は、救いを求めるように虚空へと投げかけられるけれど。
儚く今にも消えてしまいそうなその姿。
何にも変えて守ってやりたい。そう思っていても。
「自分で考えろ。これ以上、子供の駄々に付き合ってられるか」
そう吐き捨てて、乱暴にシャワールームのドアを閉める。
力任せにコックを捻り、熱い熱い湯を出した。
濁々とした気持ちを洗い流すように、強く、強く。
背後から響く嗚咽をかき消すように、強く、強く。
窓から鈍く銀色の光が踊りながら降りかかる。
白いカーテンを開けて、いっぱいにその光を浴びて。
翠の瞳に慈愛をたたえ、優しげに細めて、いまだ眠り続けるお姫様を見る。
「ほら、なのは。あんなに月が綺麗だ。見えるかい?」
白く月の光に映えて、安らかな寝顔を浮かべる彼女はとてもとても綺麗で。
すべてに変えてでも守り抜くと誓った彼女。
けれど現実はとても残酷で、ここには何もできなかった哀れな道化が一人佇むのみ。
「覚えてるかな。初めて会った日も、こんな風に月が綺麗だったよね。『フェレットが喋った』とかいって、なのははひどく驚いてたっけ」
目を閉じればありありと浮かぶあの頃。
思い出の中の彼女はいつだって強くて、優しくて、綺麗で。
「始めは自分のしでかしたことの責任を取るためだった」
どこまでも異邦人な自分。たった一人で、心細くて、けれどやらなくちゃいけないことがあって。
そんな自分をまっすぐに見つめて、手伝うと躊躇もなく言ってくれた。
「嬉しかった。なのはにはいつものことだったのかもしれないけど、僕は……本当に、涙が出るぐらい嬉しかったんだ」
そっとベッドの横へ身をかがめて、静かに響く寝息に耳を傾ける。
打ち寄せる波のような音を邪魔しないように、衣擦れの音にも注意して、寝顔をそっと見守る。
たった一人、手探りの暗闇の中、孤独と戦い続ける。
そんな絶望から救ってくれたのは――なのはだった。
あの差し出された小さな手を、いまだに自分は覚えている。
「君がいてくれたから、僕は一人じゃなかった」
闇の中に射した一筋の光。それがどれだけ暖かく、心強く、支えになったことか。
だから自分はここにいて、今も笑顔でいれて。
色んなことがあった。けれどなのははけして希望を捨てず、前を向き、力強く歩いた。
何があってもくじけず、笑顔を忘れず、自分を信じ続けて。
その姿は何よりも凛々しく見え、隣を歩くことに、何よりも誇りを感じられた。
なのはとともに過ごす間、いったいどれだけ彼女に救われたことだろう。
「だから……今度は、僕の番」
闇の中、たった一人のなのは。
きっと心細いだろう。寂しいだろう。
強がりで、甘えん坊で、寂しがりやで、泣き虫な彼女のことだから。
だからあの日、誓ったんだ。
「ずっと、そばにいるって。どこにもいかないから、って」
この、あまりにも小さく、弱々しい手を、けして離さないと。
だから、今度は。
す、と立ち上がり、窓を開く。冷たい夜風が丸い月を撫でて、微笑んでくれた気がした。
銀盤に彩られた彼女はとても安らかで、何もなかったかのように眠り続ける。
そっと近づき、その柔らかな髪を指に絡めて精一杯に微笑む。隠すように、遠ざけるように。
これ以上ないと言うぐらいに強がり、満面の笑みを浮かべて。
軽く額にキスを送り、大きく息を吸って立ち上がる。
なのはは笑っていなければいけないから。だから、自分だって笑わなきゃ。
笑って、『さよなら』じゃなく『また、明日』って、言わなきゃいけないから。
気を抜けば流れ落ちる涙を振り切って、胸元の首飾りを取り出す。
月明かりの差し込む部屋にあって紅く、紅く輝く石を眺め、強く固めた意志で語りかける。
「だから、そのために。……手伝ってくれるかな? ……レイジングハート」
紅く光る石は答えを返す代わりに輝きを増す。
まるで自分はそのために生まれてきたのだといわんばかりに、秘めた光をすべて解き放って。
白い部屋は月明かりの中、紅い光に満ちあふれ、桜色に染まる。
まるで一面に降り注ぐ桜のように、祝福されながら。
「だから、僕は」
高く掲げた石は音もなく光り輝く。
旅立ちを祝うように、励ますように、桜が風に舞い踊る。
これは終わりではないのだと。
これからまた、始まるのだと。
だから、僕は笑いながら。
また、君に会いに行く。
さく、さくと雪を踏み進む。
胸元に紅い石を大事そうに下げ、一歩一歩確実に足下を確かめながら。
その内に秘めた愛しい人を想い、微笑みをたたえて。
長く続く山道も峠を越す頃に、降りしきる白に映えて、黒を纏う人影が見えた。
「なにしてるの、犯罪者」
いきなり告げられた言葉は遠慮なく、間違いなくユーノの現状を表現していた。
それにしたってもうちょっと言い様ってものがあるだろうと思いつつ、見知った顔へ言葉を返す。
「犯罪じゃない。人命救助だよ」
「病院から寝たきりの患者を無断で連れ去ったら、誘拐って言うんだよ。知ってた?」
そういって、悪びれた風もなく、冷たい空気に腰まで届く金髪を翻し、フェイトはユーノの隣を歩き始める。
そのまま言葉もなく、寄り添うでもなく、二人並んで歩いて。
マントを両手でつかみ、体を覆って寒そうにしているフェイトを見て、ユーノは首からマフラーを外して放り投げた。
しばしきょとんとしていたフェイトは、少し微笑んで、いそいそと首へマフラーを巻き付ける。
後れ毛をかきあげる仕草に少し心臓の音が早まるのを感じて、ごまかすようにユーノは口を開いた。
「なにしにきたのさ」
「ユーノの情けない顔を見に来た」
その言葉に足を取られるように、たたらを踏むユーノ。
振り返り、文句を言おうと口を開くと、フェイトが続けて。
「――んだけど、案外元気そうだね。もっとヘコんでるかと思った」
そういうフェイトの顔は柔らかい笑みにあふれていて、舞い散る雪の寒さを忘れさせるほどだった。
――ああ、なんだ。
「吹っ切れたみたいだね。いい顔してるよ、フェイト」
そんなユーノの声に、フェイトがてへ、と舌を出す。
「お兄ちゃんに怒られちゃった。いつまでも泣いてないで、自分で考えろって」
そういって雪の降る空を見上げる横顔はなんだか大人びていて、面影と微妙にずれて見えた。
「それで気がついたら、飛び出して来ちゃってたんだ。今頃家じゃ大騒ぎかもね」
「なんだ、それじゃ僕と変わらないじゃないか。僕が誘拐犯ならフェイトは家出娘かい?」
「家出じゃないよ。ちょっと黙って出てきただけだもん」
それを家出っていうんじゃないだろうか。
そんなことを言い出そうとすると、はためくような音とともに、影が一つ、眼前に舞い降りた。
「はいはい、そこの誘拐犯と家出娘さん、止まりなさい。けーさつですよ」
おどけながらそんな言葉を放ってきたのは、はやてだった。
「あれ、はやてまで。どうしたの?」
豆鉄砲を食らったような顔で、フェイト。
「そこのフェレットに頼まれて、お届けモンや。ほい、もってきたで」
そういって、無造作にユーノへと、小さな箱を投げつける。
あわてて受け取ろうと手を伸ばし、何度かお手玉した後に、ようやく手に収めた。
肝を冷やしたような顔で、はやてを睨みつけるユーノ。
そんなユーノのあわてぶりが面白いのか、にこにことはやては微笑んで、フェイトの隣に並び、ゆっくりと歩き出した。
「……って、はやて、仕事はどうしたの?」
思い出したように、フェイトが問いかける。自分だって同じ立場なのだとは完全に棚に上げて。
「どうしたもこうしたも……それのせいで、うちも完全にお尋ねモンやろうなぁ。クビどころじゃなく、時空間指名手配されるかもしれん」
さらっととんでもないことを言い出す。
そのわりに表情に堅い物は一切なく、むしろやり遂げたような感じを受け、生き生きとして見えた。
後ろを歩くユーノが、慎重な面持ちで、幾重にもされた封印を丁寧に解く。
ややあって、箱の閉じ口から淡く青い光が籠もれだした。
どこか懐かしく、優しい光。
おどおどとのぞき込むフェイトの目の前で、ユーノがゆっくりと箱を開く。
するとそこには、青く光り輝く、3つの石が保管されていた。
「ジュエル……シード……」
純粋な高魔力の結晶。超エネルギー体。願いを叶える石。
なのはとユーノ、それにフェイトが出会うことになった切っ掛けの、始まりの石。
今はもう厳重に封印され、時空管理局本部のロストロギア保管庫の奥深くで眠っているはずの石。
「さすがに管理が厳しくてなぁ。もうちょっともってこれればよかったんやけど、それが精一杯やったわ」
悪びれもせずに堂々と言い放つと、はやては清々しいまでの笑顔を見せた。
「あっきれた。こんなものもってくるどころじゃなく、保管庫に入るだけで極罪じゃない。どうやったの」
「そこんとこはまぁ、蛇の道は蛇、ちぅ奴でな。クロノ君やリンディさん、シャマル達に協力してもろてん。
……内緒やけど、『おじさん』にもな」
どっと肩の力が抜ける。それでは軍の上層部ほとんどが犯罪幇助をしたような物ではないか。
しかも身内ですらそんなことを許すばかりか、協力までしていたとは。
「やり過ぎだよ。一つでいいって言ったじゃないか」
困ったような、けれど気持ちが嬉しいのか、複雑な表情を浮かべるユーノ。
「あかんあかん。ユーノ君一人に、そんなおいしい役目任すわけにはいかへんからな。ちゃんと人数分、や」
まるで話が見えないフェイトをよそに、ユーノとはやては話し続ける。
しまいに喧嘩まで始めそうだった二人を割って、フェイトは問いかけた。
「ち、ちょっとユーノ、そんな物使って、なにする気なの?」
目を丸くするフェイトをちら、と横目で見て。
胸元の紅い石をそっと握りしめ、淡々と、ユーノは口を開いた。
「アルハザードへ行こうと思うんだ」
しばし、時が止まる。
伝説の都、アルハザード。すべての英知が集い、死者すら蘇ると伝えられた夢の都。
かつてフェイトの母親が我が子を蘇らせようと、切望した希望の地。
「アルハザードは本当にあるんだよ。プレシアは、ちょっと方法を間違えちゃっただけなんだ」
空を見上げ、そう呟くユーノの顔は迷いなく、希望に満ちあふれていた。
「行くだけなら誰だって簡単に行けるんだ。どうすればいいと思う?」
謎かけに戸惑うフェイトをよそに、はやてはにこにこと笑顔のまま。
輝き続ける願いの石を眩しそうに見つめ、ユーノは答えを言う。
「死ねばいい」
すべての英知が集う場所。もし、そんな場所があるのならば。
そこはすぐ隣にあり、けして辿り着けない境界線の向こう。
それが死者の都、アルハザードなのだと、ユーノは言う。
「元々ジュエルシードはアルハザードへの鍵……生きたまま死ぬための、触媒として作られたらしいんだ。
けれど死者を連れ帰ることはけしてできない。それは世界の理りを根本から覆すことになるからね。
……死者はけして生き返ることはないし、時間も巻き戻すことはできない。
母親が死んだ我が子を想うあまり、一時の淡い夢を見るために生み出された、狂おしいほどの愛情の結晶だと書き記されていた」
そういってユーノは足下を確かめるように、二、三度踏みならした。
小さな箱の中身を夢見るように、だけどどこか悲しげに見つめて。
「アルハザードで、なのはを助ける方法を探してくるよ」
石を見つめ、青く照らされるユーノの顔は、そこに希望を見ているのか、澄んだ瞳をしていて。
迷いもなく、ただそこにある光景を信じ切っているように見えた。
「なのはは、生きている。まだ、生きてるんだ。
今の世で治せないならば、過去の知識を頼ってでも、未来を見つける。
僕は……なのはを助けるって、誓ったんだ」
紅い石の内に封じられた、時間の止まったなのは。
レイジングハートはその名の通り、なのはを蘇らせてくれるだろう。
この宝珠には何度も、何度でも――立ち上がるための力が与えられているのだから。
立ち尽くすユーノにひとつ息を吐き、ジュエルシードを持った手に重ねるように、はやての手が添えられる。
「だから、言うとるやろ。そんなおいしい役目、ユーノ君一人に任せられんて」
誓ったのは、一人ではない。
また会うために。
はやてもまた、なのはを想っているのだから。
「こないだ作った煮物、ちょお失敗してな。今度こそはきちんとしたの、食べさせてあげるんや」
そう呟いて、はやては瞳を細める。
レイジングハートの向こう、眠り続けるなのはの姿を思い浮かべて。
あの、一面の菜の花の咲くような、輝く笑顔を思い浮かべて。
「もう一度、おいしいよ、はやてちゃん、って……言うてもらうんや」
ただ一言、その言葉を聞くためならば。
あの、咲くような笑顔を見るためならば。
「だから、人数分、や」
そういって、はやてはフェイトを見る。
戸惑うフェイトの前で、何かを待つように、ユーノとはやてが佇む。
3つの願いの石は何も語らず、希望の光を振りまいて、ただ輝く。
青い光の向こうに、なのはの姿がうすく見えたように思えて、フェイトはいつか我知らず、手を伸ばしていた。
『私、なのは。高町なのは』
声が聞こえる。
『友達になりたいって、思ったんだ』
それは幻でも、かけがえのない、大切な思い出。
『名前を、呼んで』
闇の中へとのばされた、小さな救いの手。
その手を、自分の手に重ねて。
だから、今度は、私が。
伸ばした手を、そっとジュエルシードに添えて。
光の向こう、眠り続けるなのはを見つめて。
『フェイトちゃん』
だから、もう一度。
なのはにもう一度会って。
あの優しい声で、私の――私の名前を呼んで欲しい。
だから、そのために。
「私も――アルハザードへ行く。なのはを助ける」
そう確かな言葉で言ったフェイトの表情から、弱さが消えて。
決意を胸に、希望の石へと手を重ねる。
青い光を囲み、3人が微笑みを交わす。
何よりも強い願いと、思いを光の中に見すえ、希望を探して、未来を紡ぐために。
3人の門出を祝うように、願いの石は淡い光を振りまく。
降りくる雪が光を映し、励ますように舞い踊る。
先の見えない暗闇にあって、なお光り輝く固い誓いを見守るように。
その向こうに確かにある、希望を照らすように。
「な、3つ持ってきて正解、やろ?」
得意げな顔で勝ち誇るはやてに、ユーノは苦笑を禁じ得ない。
長い付き合いだ。彼女のこういう、ともすれば強引な面はよく知っていたのだけれど。
陰の消えたフェイトの清々しいまでの笑顔を見ていると、それが何よりも有り難く思える。
重さを分かち合えた気がして、少し軽くなった胸へと手を当てる。
紅く光る石を守るように、手のひらで優しく包みながら。
「正直、どれぐらいかかるかわからない――うまく辿り着けても、それこそ無限書庫の数倍もの量の文献を探す羽目になるかも知れない。
何年、何十年――何万年とかかる作業になるのかも知れない。……それでも、いいかい?」
死者に年月は関係がない。それこそ気も遠くなるような時間をかけて、ようやくに達成できることなのかも知れない。
けれど申し訳なさそうなユーノの視線を受けてなお、二人の表情は変わらず、むしろ希望に満ちていて。
二度と戻れないかも知れない旅路と知りつつも、揺らぐことのない決意を持つ。
たったひとつの願いのために。
願いの石に、祈りを込めて。
金の髪を彩る白い冠を払い落として、遠くを見るようなまなざしでフェイトが口を開く。
「かまわない。何を捨てても――どれだけ後悔することになっても。
私は……なのはに会いたい。会って、伝えたいことがまだいっぱいあるから。だから行くの」
それは何の変哲もない、ただの言葉。耳を過ぎれば消えてしまう、単なる空気の震え。
けれどその震えはなんと心に響き、胸の奥へ重さを伝えてくるのだろう。
痛いほどに響くその声に、目の端へ浮かぶ物を感じて、あわてて拳でぬぐう。
誓ったんじゃないか。笑顔で、会いに行くって。
「なんや懐かしいなぁ。3人一緒なんて、何年ぶりやろ」
ひとつのびをして、はやてが何かをごまかすように空を見上げて呟いた。
くす、と表情を崩したフェイトがそれに続いて。
「中学の修学旅行以来じゃない? ユーノが無理矢理鞄の中に入ってきてた時」
「あー、あったあった。女子校の修学旅行に着いてくるとか、怒るより先に尊敬したわ実際」
「あ、あれはなのはに押し込まれて仕方なく! 何もやましいことなんてしなかったじゃないか!」
顔を真っ赤にして怒り出すユーノの周りで、お腹を抱えて笑い出す二人。
冷たくピンとした空気が解けていって、自然な笑顔が戻ってくる。
「そういやそうやったなぁ……3日も我慢なんてできへんかったから、お相手してもらおうと誘ったのに、なのはちゃんが隣で寝てるからって、断られてしもうたし。タマ無しかと思うたわ」
べしゃ、といい音を立ててフェイトが顔面から地面に着地した。
頭を抱えるユーノに、はやては飄々とした感じで。
「しばらくはなのはちゃんも見てへんから、今度はお相手してな? 二人がシてるの見てて、正直なのはちゃんがうらやましかったんやで」
今度はユーノが立ち木と正面衝突をした。そのままどさどさと落ちてきた雪に埋もれ、沈黙する。
柔らかな笑みを浮かべながら、どこかうきうきとしつつ、はやてはフェイトをふりかえって。
「そや。フェイトちゃんも一緒に3Pしよか。ああ、なんやウチ、今から楽しみになってきたわ」
屈託も恥じらいもなく喋り続けるはやてに、げっそりしながらもユーノとフェイトが続いて歩く。
何もしてないのに満身創痍、今にも死にそうな顔で。
「はやて……かわんないね……」
「まぁ……何事もプラスに考えるのははやてのいいところ……なのか、なぁ」
プラスになってるのかどうかすら定かではないが。
まぁ、道中に退屈はしないことだろう。夜天の主の存るところ、常に災厄は巻き起こるのだから。
「これでなのはちゃんがいたら、きっともっと楽しいのになぁ」
何気ない一言に、つきん、と胸が痛む。けれどその痛みは、前よりも遙かに楽になっていて。
すこし俯いたあと、軽く息を吐き出して、笑顔を浮かべながら、そうだね、と答えを返す。
きっと、君のいない空気にすぐ慣れてしまうだろう。
それが怖くもあり、待ち遠しくもある。
そばに君がいないことに気づいたら、きっと僕は悲しみで狂ってしまうだろうから。
自分のやっている事が正しいのかなんてわからない。あの頃君が言っていたように、生きる意味なんてないのかもしれない。
あのまま眠らせて欲しかったと、君は僕をなじるだろうか。
なにもかもなくしたという君に、僕がどれだけの物を与えられたのかはわからないけれども。
それでも、僕が君に差し出せる物があるとすれば――君を想う、この気持ちだけ。
いつまでも変わることのない、確かな想いだけだから――だから、僕はたとえ後悔することになったとしても、会いたい、と思う。
もういちど、君に会いたいと、灰色の空を見上げ、降りくる雪に願う。
たったひとつ、会いたいと、それだけを祈る。
「ねぇ、ユーノはなのはにもう一度会ったら、どうして欲しいの?」
たわいもなく、フェイトの言葉。
けれど問われたユーノは、しばし困った表情を浮かべて。
フェイトとはやての顔を見回し、照れたように微笑んだあと、ぽつりと、呟いた。
「僕は、なのはに会ったら、ね――」
ひらひらと雪が舞う。
寒さをものともせず、笑い合う3人を祝福するように。
いつしか見えた雲の切れ間に、小さく輝く星を見つけて、愛しい彼女の笑顔を見る。
きっとまた、君に会いに行く。
だから、そのときはいっぱいの笑顔で。
何もなかったように、いつものみんな、笑い合って。
今でも浮かぶ、思い出のように。
挿絵
――そう、あの日のように――
Never end, and day and day to be next story... |